意外性に満ちた、絵画によるキリスト教の案内
★★★★★
著者は、「(キリストの)身体をめぐるイメージこそが、この宗教――とりわけカトリック――の根幹にある」と主張する。「受難、磔刑(たっけい)、復活という出来事が、キリスト伝のまさにクライマックスをなすというのが、何よりも雄弁なその証拠」であるとしている。
著者は、多くの絵画を踏まえて、説得的に論を進めている。核心的なイメージとはどのようなものか。そこからどれほど多くのものが読み取れるか。その手つきは周到で、徐々に明らかになるイメージの意味は鮮烈である。
その論の進め方に異を唱えるつもりはない。だが、著者の論旨そのものにもまして、各々の論の中に浮かび上がってくる合理を超えたものの姿に、私は大いに惹きつけられるものを感じる。しかも、合理を超えたものの姿は、どんなに奇異にみえたとしても、著者の論を深いところで支えているものでもある。
ローマのクレメンス(30―101)の書簡(96頃)に次のように書かれているという。「このお方を通して、私たちは神の非の打ち所のなき高尚なる御顔を鏡に映すように見る。彼を通して私たちの心の眼は開かれた」。見る人によって、鏡に映すように、異なる顔に見えるというイエス。そんなイエスを前にした人間の、深い慄きを感じざるをえない。
また、ある時期から、司祭が聖体のパンを高く持ち上げて、信者たちに見せるという、「聖体奉挙」という儀礼が行われるようになった。「この儀礼のさなかに、聖体から血が流れ出たとか、………、幼児キリストの姿が見えたりといった、普通ではありえないような奇跡の数々が、各地で頻繁に報告されるようになるのも、理解できない話ではない」と著者は述べる。人々の、「本当に神を見たいという切実な願望」はいかばかりであったか、と思う。
その他にも、有名なアッシジの聖フランチェスコの「聖痕拝受」の逸話をはじめとして、多くのとても信じられない話が記されている。だが、人々の聖なるものを渇望する心が、そのような話からこそ覗われる。そもそも、キリストの復活という教義の根本からして、(キリスト教徒以外には)信じられない話なのだ。今現在も、キリスト教徒の心の底には、そのような奇跡を望む心があるのだろうと思える。
キリスト教の、特にヨーロッパの歴史を通じて、カトリックの教えを信じている人々の思いを知るのに、多分類書の無い、非常によい本だと思う。
醜いイエス、美しいイエス−キリスト教の本質へ迫る意欲作
★★★★★
本書は、西洋美術史を専門とし、京都大学教授である著者が
絵画に描かれたイエスと彼の身体を巡る議論を通じ
キリスト教文化の多様性や
ヨーロッパ文化の根底を探る著作です。
イエスをめぐる絵画史・・・
と聞くと、
些細な問題を長々と論じた、文字通り神学論争的なものや
具体的な論拠を示さないフワフワとした議論―を思い浮かべる方も多いはず。
しかし本書は、図像学、神学、文化人類学など
特定の学問に拘束されない自由な発想と
厳密かつ論理的な検証に基づき記されており
そうして偏狭さ・危うさとはまったく無縁です。
また、
ミサで使用されるワインとパンは
いつ、どのようにしてキリストの血と肉になるか?
など神学等を学んでいないとイメージしにくい議論が
数箇所ほど登場しますが、
平易で要点を押さえた記述なので、容易に理解が可能できます。
イエスの容姿や心臓、さらに聖痕めぐる議論など
どの議論も興味深いのですが、
とりわけ
フレイザーの議論やミケランジェロの絵画をきっかけに
聖書に登場するハマンとイエスの関係
そして、キリスト教とユダヤ教の深層的なつながりを論じた箇所からは
まるで極上の推理小説を読んでいるような知的興奮・昂揚感を感じました。
今までなんとなく長めていた宗教画が、
何倍も面白く観賞できるようになる本書―
図像学に触れたことがある方はもちろん、
これからヨーロッパ等へ旅行に行くという方や
西洋画に関心を持っている方には、文句なしにおススメします☆