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「戦争体験」の戦後史―世代・教養・イデオロギー (中公新書)

価格: ¥882
カテゴリ: 新書
ブランド: 中央公論新社
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戦争の発端を解明すること ★★★★★
私自身は、本書にも記載のある、わだつみ像破壊に対する星野芳郎の批評(毎日新聞、1969.6.5)を読んで、その後の自分の思考のパラダイムが変わってしまった程のショックを受けたことを今も新鮮に思い出す一人である。それまでは戦没学生は同情こそすれ、知識人としての戦争責任を問う対象ではなかった。しかし今本書を読む時、昔とは違った想念に身を揺さぶられる。

本書は主として戦没学徒兵の遺稿集『きけわだつみのこえ』を題材にして、その受容の世代的変遷を「歴史社会学」的に丁寧に追求している。この本の特徴は、ある言説を感心しつつ読んでいくと、それを真っ向から批判する別の言説に出会うといった、ページをめくる面白さにある。著者の目配りの広さと公平さに感心させられる。

受容を読み解くキーワードは「教養」である。戦中派としての彼等は、戦前派からはその教養の無さが哀れまれ、戦後・戦無派からは逆にその教養臭さが嫌悪される。これでは戦中派は立つ瀬がない。

感想を言わせて貰えば、だがしかし、実際に銃を持って戦場に出掛け身を挺して戦い死んでいったのが彼等世代である。戦前・戦時中の自分の言説を隠蔽して戦後の言論界に生き残った戦前派知識人の態度には許せないものがあるが、戦場のない幸運に身を置きながら声高に彼等を責め立てた私たち戦後・戦無世代も今から思えば恥ずかしい点もある。

「歴史社会学」的観点を少し広げて言えば、戦後の高度経済成長を担い、平和憲法を守ってきたのは戦争に生き残った戦中派である。これらの中味に関しても様々な議論はあろうが、荒廃し尽くした国土を復興し、日本をとにかくもGDP世界第2位までのし上げ、戦後65年間、一人の「戦死者」を出さずにきたのは、悲惨な戦争体験から得た彼等の「絶対平和主義」によるところが多い。それは「自尊史観」派や絶対平和主義では「国際貢献」が出来ないとする新自由派からの執拗な攻撃に抗して、今も日本人の主流な潮流として生き延びている。

これは彼等が我々に示した教養というものではないだろうか。戦中派の戦争責任はこれによって、既に大部分が免罪されているのではないだろうか。

好むと好まざるにかかわらず、日本の戦争責任を引き継いでいるのは戦後・戦無派である。戦中派を非難して済む問題ではないのだ。日本兵士が犯した罪でなく、日本国家が犯した罪をなお追求しなければならない。それは国民総懺悔である筈はない。その構造を問うことである。

アメリカが引き起こした、イラク戦争やアフガン戦争に見るように、開始された戦争を止めるのは容易ではない。それ故かつて日本が引き起こした戦争に対しても、その「始まりの原因と責任」を解明することが今なお大事なのである
戦後体験の語り方 ★★★★★
 「きけ わだつみのこえ」の継承を軸に、また、教養の差をキーワードに、戦後体験の語り方、語られ方を考察する。そのあり方が単に戦争の悲惨さを知らしめるものばかりではないことを明らかにする。その背後には当然様々な教養のレベル差、政治的な思惑等がありうる。
 本書はこのケーススタディをもとに、戦後体験の語られ方が様々であることを結論として示している。
 では、我々がどうすればいいかというと、なかなか難しい。ある程度時が経てば、直接戦争を体験した人から体験を聞くことはできなくなってしまう。その時には、観念的・抽象的な言説のみが独り歩きするのではないだろうか。今我々がなすべきことは何だろうか。当然答えがあるわけではないが、このことは胸の片隅に置いておいてもよいのではないか。
 
久々に読み応えのある新書でした ★★★★★
表題にも書いたとおり、新書としては久々に読み応えのあるものに出会えた気分です
内容に関する記述に多くを割くことはしませんが、ざっくり言ってしまえば
「きけわだつみの声」における戦争体験が、戦後どのように語られ受容され、政治的に利用されてきたか、
そして「戦争体験」の語り方や中身をめぐって激しい論争が繰り広げられてきたこと、について書かれていると理解しています
そこで著者が鍵概念として用いているのが、「教養」なわけですが、これについては単純になるほどなぁ、という感じ
近年の、戦前の教養主義、戦中派の教養、戦後の教養、近年の無教養、これらは一口に「教養」といっても、
その中身は様々であって、むしろ「わだつみ」をめぐる論争を通して、各世代が標榜する「教養」をめぐる論争を追うことにもなります

無論、著者も認めている通り、これは「わだつみ」という、学徒兵の「戦争体験」をめぐる著書であって
(中には農民兵士に関する記述も少なくありませんが)、その意味ではカッコつきの、限定的な「戦争体験」なわけです
必ずしもすべての戦争体験が同様の経験をしたわけではないことに留意すべきでしょう
むしろ本書から私が得た洞察は、「わだつみ」だとか、「戦争体験」だとかいうものは、あくまで象徴・イコンに過ぎないということでしょうか
だから、その中身や意味をめぐって、論争などが起きたり、「戦争体験」の継承の中に断絶をみることになるのでしょう
メディア史家の佐藤卓己氏がいみじくも述べたように、「戦争体験の風化」や「世代の断絶」を嘆く言説は、
「戦争体験の継承」を主張する一方で、同時にその「忘却」をも推進している
つまり、ある誰かが言う「戦争体験」には、特定の中身があり、意味がある
それは継承されるべきだけども、それ以外の「戦争体験」は継承しなくともよい
「戦争体験の継承」を訴える人々は、意識的にか無意識的にか、「戦争体験」というイコンを用いて、何らかの政治的(とは限らないが)主張をしているわけです
このような考えは別段私が言うまでもないことですが、本書はこのことを改めて再確認させてくれた気がします

最後に、話を本書の中身に戻しますが、第二次わだつみ会で理事をつとめた安田武氏が追求し続けたような、
体験を生の体験としてのみ語り、そこになんらの意味ももたせず、その語りがたさにこだわる姿勢というのは、世代を越えて継承されうる手法なのでしょうか
あるいは、戦争体験の語り方に、何らかの正解のようなものはあるのでしょうか。今のところ私には答えを出せそうにありません
戦争体験を語り継ぐことの困難さ ★★★★☆
戦没学生手記集『きけわだつみのこえ』の受容史を中心に、「戦争体験」についての語り、その継承と断絶を論じたものである。そして本書の特徴は、『わだつみ』の受容を、「戦争体験」の世代間断絶だけでなく、「教養」に関する世代間断絶、その理解におけるイデオロギー的相違をも視野に入れて論じている点にある。一読すると、通常、高い教養と知性を持ちながら、悲劇的な運命を受け入れざるを得なかった高学歴兵士たちの悲哀を集めた書という印象のある『わだつみ』だが、実は、非常に多様な議論、理解がなされてきたことが分かる。

たとえば、『わだつみ』の書き手である学生たちの教養レベルは、今日でこそ「高かった」と言われるが、彼らの前の教養主義全盛時代の世代に言わせると、彼らのレベルは、戦争責任を問うことも難しいくらいに「低かった」のである。しかし、教養主義そのものが没落した時代になると、『わだつみ』世代の「教養」が再び問題となり、学徒兵の戦争における加害者責任をめぐる議論が行われるようになったという。

戦争体験は、戦争を体験した人の数ほどある。それゆえにそれを継承して、記憶として残そうとすると、誤解や歪曲を伴わざるを得ない。その結果、受け止め側の世代、イデオロギーによって異なった記憶が形成され、断絶や対立が生じる。その結果、体験は風化していくかもしれない。体験を語り継ぐとは、このような困難と向き合う作業なのだということを、本書は教えてくれる。