一兵卒から見た戦記もの、というジャンルを初めて読んだのだけど、東大出の文学青年の戦争体験だけに、言葉・表現の選び方がしっかりしている。この祖父とルポライターの孫というコンビネーション、それと何よりもこの祖父が戦地から生還できたことが密度の高いこの本を成立させている。私も含めて多くの人に「自分の祖父の戦争」というものは存在するのだろうが、これほどの体験記が誕生する可能性は殆ど無いのではなかろうか?
「言えることは、それまで殺し合いをする機会を持たなかったということだけでは、その人が平和的な人間だということにはならないということだ」
(中国戦線に行った祖父が戦闘の後、死体の並ぶ光景を見て)
「人間は本質的に阿呆な生き物だ。しかし、人間は成長する。進歩もする。だからこそ、勉学に励み、真摯に生きて行こう。それが、まだ若い私の拙いながらの人生観であった。
しかし、私はこのとき、人間には一向に進歩しない領域があることを理解した。人間は救いようのない決定的な宿痾を背負わされて生かされているのだ」
「人間という生き物の程度を知った気がしたよ」
「支那兵も日本兵も血の色は同じだった」
力強い言葉の数々。祖父が味わった戦争と、人生の最期まで秘していた真相。引き金は引いたのか? 略奪は? 戦後平和教育が徹底された社会の中で、多くの祖父たちは自らの行為を黙した。それを聞き出すことができたのは、聞き手が実の孫でプロのジャーナリストであったこと、さらに祖父が自分の死が近いことを予期し「遺言」を残す気になったからであろう。そういう意味でこういう記録は非常に貴重であろう。その真実の持つ迫力を我々はどう受け止めればいいのだろうか。
文章は極めて緻密であり、まるで一編の名画のよう。私は読後、筑紫氏の言葉に強く同意した。