確かな実証実験
★★★★★
近年数多く出版されている脳科学関連の本とは内容がかなり異なっていると感じました。
一般的に信じられている(実は誤って伝わっていることも多いのでしょうが…)情報の信憑性について議論するのではなく、
自身の研究内容をベースとした話の展開に終始されています。
これは、現在進行形で研究を続けられている方だからこそ可能な文章構成ではないかと感じられました。
内容に関しても、今までの本ではあまり紹介されていないような分野の研究の報告など、非常に新鮮に感じられました。
この分野で最先端の研究をされている筆者だからこそ書くことができた内容で、
その一部を垣間見ることができ、非常におもしろかったです。
つながりたがる脳
★★★☆☆
最近、一般大衆にも注目度が増している脳科学。そのため、見切り発進とも感じる内容や、なぜ出版できたのか疑問視レベル本も多数。そんな中、現役の研究者が書いた王道な一冊。
“脳科学の四つの壁”として、「技術の壁」「スケールの壁」「こころの壁」「社会の壁」を主に前半を論じた後、著者が行ってきた(二頭のサルで壁に挑む)具体的な実験の試行錯誤と解析・解釈が後半。
終章は『つながる脳』と本書のタイトルが付いており、著者の最大に重きを置いたのだろう。脳科学を交えながらも社会的なシステムの在り方、現在の社会的・思想的な問題に軽く波及している。
研究者が書いた王道な本なので、安易に脳科学を謳った本を読みなれていると面白みに欠くと判断されかねない危険性はある。
脳科学が直面する大きな壁とそれを打開するための試み
★★★★☆
脳科学者による一般読者向けの著作ではありますが、第一線の研究業績とされるものを摘み食い的に拾って来てそれをわかりやすく提示するといった、「脳科学本」に得てしてありがちな内容とは大分趣を異にしたものです。
本書によれば従来の脳研究は、その扱いの難しさもあって、人間が他者も含めた環境と相互作用しながら常に変化し続けているという複雑な現実を、大幅に単純化した環境条件化でせざるを得なかったり、分子レベルという専ら物質的な観点に立って説明しようとしたり、脳内の多領域間の情報伝達構造の変化には目を瞑ってひとつの領域を特定の機能を結びつけてそれを積み重ねて脳全体の絵図を描こうとするモジュール仮説に傾いたり、億単位の神経細胞から成る脳の働きを高々数百の神経細胞の活動記録の解析から議論したり、などなどヒトの脳の機能している「現実」から大きく乖離したものにならざるを得なかったようです。
著者は、自閉症との関連で人口に膾炙している感さえある「ミラーニューロン」や「心の理論」についてもファンタジーにすぎない可能性を指摘していますし、脳内情報の操作を可能にするような技術を手に入れない限り、次の50年も脳科学が今のようにファンタジーのままでおかれる可能性が高いとさえ述べています。
そのような困難を打破するための方策として、著者の掲げている、複数のサルを用いた社会性脳研究、仮想空間、ブレイン・マシン・インターフェイス(頭で考えただけで思い通りに動いてくれる義肢などが例として挙げられています)といった切り口がどの程度有効なのかは、十分に理解はできませんでしたが、著者の謙虚かつ冷静な姿勢には好感が持てました。
一回性の脳科学
★★★★★
科学は、ヨーロッパ生まれであるため「個」を分析する事を自明としてきた。
著者はアメリカ留学中、既存の方法論による脳科学に限界を感じていた。
人は、当然に単独(個)では生存出来ない。
他者、自然と繋がっている。
世界はネットワークで成立している。
脳内についても然り。
となると、事実は非定常性(全く異なるたくさんの不連続な状態の間を行ったり来たりする性質)、そして一回性という事である。
これまでの死体解剖学的な手法では生きものの実体は捉えることはできない。
自己とは何か、他者とは何かについても再定義が必要となる。
最近、流行のミラーニューロンについても、こういった観点から単純すぎるのではないかとの指摘は肯ける。
また、リベットの自分の行為が自分の知らない無意識のレベルで既に決まっている。という実験について当たり前にしか思えない。意識の扱える情報量はせいぜい数十ビット程度しかない。そんな少ない情報帯域で脳内のすべてを把握することなんて無理に決まっている。という考え方は目からウロコである。
人は、もしかしたら脳という仮想空間で踊っているのではなかろうか。
この本には、原石(従来型ではない方法論の試み)が転がっている。
学問としてのクロスオーバー、その原点は『関係の認識』にある
★★★★★
一言でいうならば、“誠実な書物”である。その分野のスペシャリストによって書かれた専門書にありがちな、“自らの専門分野の限界を認めない姿勢”を著者はあっさりとかなぐり捨てるところから、議論を始めている。
『脳科学』。この言葉から想起されるイメージとしては
(1)大脳生理学に代表される医学の一分野
(2)対象としての“脳”を見るため、自然科学の一分野
が想起される。
けれども本書はそうしたイメージを物の見事に裏切ってくれる。著者が注目した点は“装置としての脳”が果たす“役割”であり、そこから『脳科学』それ自体の再構築を図ろうとしている部分にある。
“装置としての脳が果たす機能”は『認識』であり、それは常に自らと他者、或いは社会との『関わり』の中で生成される。つまりは『脳科学』は同時に『心理学』或いは『認識としての哲学』である。
かつて文豪ゲーテが『ファウスト』の中で“全てを知り得た筈の学者が実は自らに関して何も知ってはいなかった”として、『科学』が依って立つべき立脚点への原点回帰を説くシーンがあるが、本書はそうした意味で“学問のルネサンス(文芸復興)”的な色彩の強い書物である。
DNAの解析を完全に行うことが出来ても、人間の持つ意識や知性までを“完全に”数値化或いは定式化することは恐らく不可能に近い。ある程度は参考になるかもしれないが全てに該当する型式の下に分別することが可能だろうか。著者の発想の原点にはこうした部分を読み取ることができる。ともすれば不可知論的な部分へと入り込まず、冷静且つ客観的に科学者として対象に向き合っている姿勢には異分野の研究者にとっても参考になるものと思われる。
日本の学問がともすれば『タコツボ化』し袋小路に陥ろうとしている危機の中で、学問本来が持つ原点に立ち帰り、隣接科学からの成果を積極的に採り入れ、更に深化を図ろうとしている著者の姿に好感を持つことが出来る。
学問本来の対象は常に“人間”だったはずだが、いつの間にか“学問”それ自体が“学問”の対象となってしまったかような感がある。その典型は昨年世界中に混乱を招く一因となった“金融工学”であり、金融工学に携わった一部の人間には、未だに“人間の全てを数値化できる”と過信している部分があることも否定できない。学問に携わる全ての者が責任として負っているのは“学問の対象とするところは何であり、それが人間の未来に対してどのような光と影をもたらすのか”と常に自問自答する姿勢である。
この意味で本書は文系・理系の壁を越えて読むことができる数少ない“専門書”でもある。