高橋氏の評論部分は、ほとんど納得いくものでそれなりに収穫はありました。しかし一点だけ違和感。しかもこの評論の核心部分で覚えてしまいした。「これでしばらく生きていける」少なくとも私はそうは思わないのです。藤沢周平の小説をよんでこのような感慨を抱く人達に共感は覚えるけれども、同意は出来ないのです。「生きていく」それは自分の「生きる意思」を確認する作業です。
高橋氏は、この評論の中の言葉を借りるなら「武家社会」に属している人ではないかと思う。一日一日が真剣勝負で、一作一作が生きて行く「意思」に直結している人達。高橋氏や、精神的な真剣勝負をしている人達にとってはこの感慨は的を得たものなのかもしれない。しかし私は「市井」の人である。一日一日を惰性で過ごしているに過ぎない。『闇の梯子』を一段ずつ降りて行くように、いつとは覚えず藤沢の「負」の世界に共感を覚えるようになったそういう陳腐な一労働者に過ぎないのです。武士のように『ただ一撃』で物事が決まるような生活はしていない。
だから、例えば『幼い声』に関する私の感慨は以下のようなものです。おさななじみのおきみは父親が無実の罪で獄死してからは裏道を必死に生きてきた。出所するまで世話を焼いた男達に対しておきみはそっけない態度をとる。そういう彼女を「泣かない女」「1人でやっていける女」なんだと認める話です。認めるけれども「誰か1人は悲しまなければないらない」その1人に自分がなっていることを発見して、ただ「救われた」感じ(決して生きる意思とは関係ない)が少しするだけなのです。(ただ、このように私の感動した理由を言葉で書いてくれて、その意味でこの本は大変ありがたい本でした。)
ああ「これでしばらく生きていける」。
これを読んでそう思う。
でも感動する本や映画はあるし、あの時の気持ちをなんと表現すればいいか…。
が、「これでしばらく、生きていける」!そうそう、そんな感じ!
私が初めて呼んだ藤沢周平作品は、丁度この本で最初に取り上げられている「又蔵の火」だった。そしてそれは私が初めて呼んだ時代小説でもあった。
放蕩者のどうしようもない兄、兄のかなしみを感じ、兄の惨殺にやりきれない思いを抱く弟、最後には「斬られてやる」兄の敵…。この短編を読み終わったときなんと表現したらいいのかわからず、ただ胸がいっぱいになってしまってぼうっとしていたのを思い出した。
この作品で「時代小説なんて、坂本龍馬とか徳川家康とか、大河ドラマみたいなやつでしょー」という思いは吹き飛んでしまった。
それから本当に貪るように藤沢作品を読み、どれを読んでも、やっぱり胸がいっぱいになるのだった。なぜだろう?今まであまり考えたことがなかったのだが、それを本書で高橋氏が解き明かしてくれた。
そこには高橋氏が言うように「負」を抱え、「負」を生きる人々が描かれてきたからなのだろう。
うまく生きていくことができない登場人物に自分を見つけ、私も子供の頃に見た気がする光景を思い出し…、どうしようもない状況の中で強く生きていく姿にはっとして…。
様々な作品の印象的なシーンに改めて感動を覚えた。それは、もちろん作品が素晴らしいからであるが、高橋氏の明晰で反骨ながら、繊細な、限りない優しさを感じる評論ゆえだと思う。
「戦争嫌い、熱狂嫌い、流行嫌い」
私もそうやって、生きていけたらな…。
なんとか、ぼちぼちと…。