No Direction Home [DVD] [Import]
価格: ¥1,269
本作『No Direction Home』を見るにあたって、一連の固定観念を捨て去れと言われても、それは無理な話だろう。一体、“自分だけのボブ・ディラン像”を持っていない人なんて存在するだろうか。このドキュメンタリーでマーティン・スコセッシ監督が成し遂げたことの真価は、我々を揺さぶり、自分勝手な先入観から解き放ってくれることにある。本作では、いくつかのパートが同時展開していくが、どのパートも文句なしに魅力的な語り口だ。もちろん、中心となる物語があって、そこでは無二の天才がアーティストとしてのアイデンティティーを主張するさまが描かれる。この成長物語に、その他のパートが絡むという構成。中でも、戦後のアメリカにおける大衆文化の役割、芸術に特有の自己至上主義vs.社会的責任、ファンが報道機関と共謀して伝説を維持する様子を扱った各パートは注目に値する。これらすべてのパートが互いに補強し合い、一体となって、本作の複雑な構造を形成しているのだ。
スコセッシ監督は、200分間以上を費やしてディランの駆け出し時代を描いている。これによって、圧倒的な深みと多角的な視点を備えた描写が可能となり、作品全体を鮮やかな1枚のモンタージュ写真として浮かび上がらせることに成功した。メインとなる物語は、まさに一大叙事詩と言っていい展開。冷戦時代のミネソタ州で過ごした少年時代に始まり、グリニッチ・ビレッジのコーヒーハウスやニューポート・フォーク・フェスティバルを経て、クライマックスとなる1966年の賛否両論を巻き起こしたUKツアー(自由奔放な創造性を爆発させた期間)を迎えるのだ。ロバート・アレン・ジマーマンからボブ・ディランに変身していく過程で、彼は筆舌に尽くしがたいユニークな芸風を生み出す。それは、時事問題と古典的なるものを融合させるという、まるで太古の賢人のような技だ。スコセッシ監督は、ディランの未公開映像のストックの中から、演奏、記者会見、レコーディング・セッションなどの模様を持ってきている。さらにインタビュー映像も使用されており、ディランの友人、元友人、アーティスト仲間が登場するほか、インタビュー嫌いで有名なディラン自身が駆け出し時代の思い出を語っていて興味深い。余談や脱線の連続で退屈になりかねない会話がうまく編集され、全体として力強い内容になっている。それはディラン本人のように啓発的で、エキセントリックで、矛盾に満ちていて――詰まるところ、一筋縄ではいかない味わいなのだ。
極めてパーソナルな性格の強いトピックの一部は真相を明かされないままに終わるが、ディランの超然とした余裕はどこか自虐性を漂わせ、思慮深いコメントはコミカルなキレを感じさせる。尊大なところも見られるが、若き日のディランがウッディ・ガスリーやジョニー・キャッシュやジョーン・バエズに対する畏敬の念を語るくだりは感動的で、告解室のようなムードも効果的だ。また、今は亡き詩人アレン・ギンズバーグが神々しいまでの魅力を振りまいており、何度か主役の座を奪いそうになる。一貫して印象的なのは、世間に認められたいというディランの渇望、そして、ありふれたフォーク・シンガーとは違うと実際に世間に認めさせる彼の能力だ。全体的な脈絡の中で見てみると、ディランが“裏切り行為”を行った後にオーディエンスのブーイングに対して取るリアクションには、ひと際目を奪われることだろう――とりわけ、後年のディランの淡々としたステージを見慣れた向きにとっては。さらに本作は、D・A・ペネベイカー監督による伝統的な作風の『Don't Look Back』では不可能だった方法で、ディランが日頃から“偽りの自分”を巧みに作り上げ、胸に秘めた表現欲を守ろうとしている様子を明らかにする。そう、ディランの究極的な使命とは、決して束縛されないことなのだ。スコセッシ監督が本作で見事に示してくれたように、ディランをめぐる伝説は、彼を知るほどに巨大化していくのである。(Thomas May, Amazon.com)