「語り」を楽しむ本
★★☆☆☆
この本は「論」ではない。
「語り」である。
「語り」すなわち「騙り」である。
様々な事象に言及されるが、各々を繋ぐ契機となるのは
すべて「連想(すなわち「思いつき」)」だから
論理的な繋がりがない。
体のいい「こじつけ」としか思えない。
「騙り」と呼ぶ所以である。
ボクにいわせれば、「その先」を掘り下げたら
何かが出てきそうな箇所も散見されたが、
そのような掘り下げは為されず
「連想」でドコカへ飛んでいってしまう……。
ま、これだけ風呂敷広げちゃってるから、
もしもきちんと論じようとしても
この紙数では足りるわけないんぢゃが……。
なんかよく分かんないけど調子良くべらべらと喋るのを
テキトーに聞き流すことが出来れば、それなりに楽しめるかもしれません。
ボクも一読目はそうでした。
でも今回の二読目では鼻先を掴んで引きずり回されているよーな気がして
正直かなりイライラしました。
はじまりのおわり/おわりのはじまりとしてのYMO
★★★★☆
YMOがいまだ新しいと思えてしまうのって、あそこがクラシック→ジャズ→ロックって進化論的な歴史の最後の地点だったからなのかもしれない。今は音楽って並列な「ジャンル」だけど、あの地点までは音楽史上の「運動(ムーヴメント)」でさ。テクノ、ニューウェーヴ、パンクってのは今の尺度だとまったく違う「ジャンル」でしかないんだけど、あの当時は既存のロックへのカウンターって点において、つまり「運動」という点において、一括りにしちゃって良かったんであって。テクノっつーかYMOはやっぱ、「YMO以前/YMO以降」として語られる存在なんだよな。
「電子的に音を合成する方向、現実音を録音して電気的に加工する方向の二つが存在した。そうした前者の「記号化」、後者の「標本化」という二つの可能性の芽を、シンセとサンプラーはポップ・フィールドに簡易化して融合した」って本書には書いてある。YMOの音楽自体が「記号化」「標本化」っていう、音楽の歴史を切断する要素を内包してた訳だけど、その手法は音楽史的には新しかったんであって。それはあの80年代初頭に一気に来た他のアートや社会現象のシミュラークル化と軸を一つにしていて、YMOは最後のオリジナルでありながらシミュラークル化の端緒っていうか。時代とか歴史として語られる最後の存在でもあり、リニアな歴史に終止符を打った当事者でもあり。
本書は、これまでまるで亡霊のように、つまり、ある人からは神格化され、ある人からは存在を一切無視されてきたYMOを、あの時代を含めて、今とのつながりも踏まえて、フラットに捉えなおす試みだと思う。個人的には、あの時代から今の時代に至るまでに登場し消えていった「デジタル時計」「(ウォークマンの)ホットライン機能」「ポケベル」「伝言ダイヤル」といったツールへの言及が懐かしくもあり、興味深かった。
田山三樹という三流ライターが某誌の書評で酷評していましたが、好著ですよ
★★★★☆
田山三樹という三流ライターが某誌の書評で酷評していましたが、
同業者に対する営業妨害じゃないかと思いました。あんなに口汚い書評ってあるんでしょうかね。
内容は、田山某の中身のない本(YMO GLOBALだのNICE AGEだの)に比べ、
社会学、流行学としてYMOを語る画期的な書物になっています。
未消化な部分はありますけど、音楽出版物の試みとして評価できますね。
難しいです…
★☆☆☆☆
気軽に読める内容ではなかったです。
著者の方の「思い違い」と書かれているレビューに同感です。
YMOの活動時期、彼らの発言や、活動は単に音楽の世界にとどまらず、ニューアカ連中を通した現代思想や、コピーライターを通したCM界、テクノカットや人民服に見るファッション界など、様々なジャンルに及んでました。「YMOを聞くこと」自体に、何か大きな生まれつつある文化を享受している感じがして、YMOファンの私は、知的好奇心をえらく掻き立てられたものです。著者の方は、純粋に当時の知的好奇心を学問として探求しすぎてしまった様に思われます。学問として極めすぎて、一般的な読者が、おいそれと共感できなくなってしまったのではないでしょうか?
私のような知恵の足りない者には、残念ながら楽しめませんでした。
隠れた好著かも
★★★★☆
この本は、視野の狭いYMOマニアからは些細なことをつつかれ、どうも評判はいまひとつのようだ。でも、それは読みかたを間違っていると思う。著者はYMO自体に寄り添って情報を語るというよりは、YMOにかかわる「現象」を幅広く論評している。思想、文学、アニメ、映画などを横断しつつ、YMOが活躍した80年前後だけでなく彼らの登場を準備した60年代から、テクノという手法が影響を残し続けた90年代以降、00年を越えるまで、実に長い期間について考察している。頭の硬いマニアはYMO自体の情報以外は飲み込めないのかもしれないが、柔軟にものを考えようと思う評論好きが読めば、話題が次々に移り変わっていく様子がけっこう面白いのではないか。坪内祐三『一九七二』、四方田犬彦『ハイスクール1968』、大塚英志『おたくの精神史』など、ここ数年、ユース・カルチャー、サブ・カルチャー史の再検証本が相次いでいるけれど、本書はそうした流れに連なる隠れた好著だったりするかもしれない。