このアルバムでは、いつもながらグールド特有の、左右両手の1本1本の指の動きの理性的な独立感がたまらない快感を与えてくれる。とりわけ衝撃的なのは、冒頭の「マルチェルロの主題による協奏曲ニ短調」。J・S・バッハがマルチェルロの有名な「オーボエ協奏曲」をチェンバロ用に編曲したものをピアノで演奏している。第2楽章の静謐で典雅な思索では、スローモーションのように大胆なトリルが、グールド好きには身をよじりたくなるほど。憑かれたように眩惑的な迫力を持つ「半音階的幻想曲」は、従来続けて演奏される「フーガ」が、グールドの死によって残されなかったのが惜しい。全編、グールドのピアノを弾きながらの奇妙な鼻歌は快調である。
なお、ドメニコ・スカルラッティの3曲のソナタとC・P・E・バッハの「ヴュルテンベルク・ソナタ第1番イ短調」は1968年の録音で「シルヴァー・ジュビリー・アルバム」に収録されているものと同一。演奏は目覚しく鮮烈で、理性のコントロールの効いたひんやりとしたタッチ、才気の閃きにはめまいすら覚える。グールドの膨大な録音の中でも屈指の名演である。また、バッハの「イタリア協奏曲」は1959年の有名な旧録音で、その華麗さで世に誉れが高い。録音年代はバラバラだが、通して聴いてもアルバムとしての統一感は保たれている。(林田直樹)