リアリズムの相違:太宰 VS 西鶴
★★★★☆
第二次大戦中、作者30代の所謂「中期」の作品集。家庭を持った物書きとして、まともな市民たろうと太宰が頑張っていたこの頃の作品は、彼の自虐的な作風が抑えられた読みやすいものが多く、僕も好きな作品が集中している。この本に収められた作品は日本のお伽噺や古典の再解釈、もしくは中国古典をまねた創作などが詰まっているが、どれも人間というものへの厳しい洞察が入った惨い話にまとまっているのが太宰らしい。
この惨さをリアリズムと言い換えても良いのだが、僕が今回お目当てだったのは西鶴の諸作品のパロディを集めた「新釈諸国噺」である。本家の方も金や義理、色、堕落などに溺れる人間の悲哀を描いた悲劇を得意とした作家だが、太宰は西鶴の作品にはそれ程大胆な解釈を与えてないんじゃないかと思う。かなり色んな本から抜粋してきた話を纏めているので、もしかしたら戦時中の厳しい出版事情から古典に沈潜せざるを得なくなって習作的に纏めた企画だったのかもしれない。
近代小説は登場人物の確固たる「内面」「人格」を描くところに方法論があるが、西鶴のリアリティの凄いところは、一つのごく短かい作品の中で主人公の人格がゴロゴロと変化するところにある。登場した時には倹約家だったり無垢な少女だったのが、物語の途中では放蕩や悪行を極め、最後にはまた別の人格に変わっていくのだが、その時は既に遅く悲劇が待ち受けている。こういうキャラの変化がたった数ページの中で非常にあっさりと書かれているのだが、逆に僕はその突き放した人間観に江戸のリアリティの凄みを見る。本書所収の太宰の短編作品のリアリティは逆に一つの「人格」の闇や凄みに迫っていこうというベクトルのものだが、両者の違いはそのまま、近代小説と江戸の戯作物のリアリティの違いでもある。そして、金や欲だけでなく色んなものによって人間がガラリと変わっていくことを何度も経験した40手前のオサーンの僕にとって、最近は西鶴のリアリティの方が怖くて新鮮だったりする。色んなことを思い出してしまうのに、怖いもの見たさで読んでしまうというか。いや、結局どちらも洞察における突き放しっぷりはお見事なんですけど、太宰の場合そこに自虐の味が混ざるからまた複雑で、そこが良いという人は五つ星をつけるでしょう。
惚れたが悪いか! "カチカチ山"
★★★★★
子供の頃読んだ"カチカチ山"に再会。
愕然としました。
どうしてかって ?
そこに書かれているうさぎの姿はまるで私そのものだったからです。
どうして私の事をこんなによく知ってるのか、と思うほど
まるで見てきたような描写に怒りと可笑しさで体が熱くなりました。
それにしても狸の醜態ぶりには同情を禁じえない。
何もここまで書かなくても・・と思えるのだが、
これが女性に甘える太宰の奥の手かもしれない。
ついつい何度も読み返してしまうのは狸に(太宰に)化かされたんだろうか ?
私としたことが...
「清貧譚」だけの評です
★★★★★
昔々、高校教科書で読んだ「清貧譚」をふと読み返してみました。聊斎志異が下敷きということですが、これって、ものすごく現代的なファンタジーではないですか。
ひどく貧乏な三十二歳の独身男、才之助を大卒でブラブラしている男。その彼が入れ込んでいる菊作りを、フィギュアづくりに置き換えて読み進めると、フィギュアの精が空から降りてくる、すごおくよくある萌え系のコメディとして読めます。
少し引用。
…けれどもその夜、才之助の汚い寝所に、ひらりと風に乗って白い柔らかい蝶が忍び入った。「清貧は、いやじゃないわ」と言って、くつくつ笑った。娘の名は黄英といった。
(引用終わり)
ねっ、本当にそうとしか読めないでしょう。ちょっと引用が短すぎてわからないと思ったら是非原文に当たって下さい。小品なので10分もあれば読み切れます。
この一作だけでも本書は読む価値ありと思います。
太宰治には講談師としての才能があったのかも
★★★★★
そのように思わせるくらい、読んでいて、とにかく面白い。
「人間失格」とも「走れメロス」とも違う太宰治が、そこにあります。
個人的には、「かちかち山」がイチ押し。タヌキとウサギのかけあいが落語みたいで、笑えます。
それでいながら、どの話にも哀しみが漂うのは、太宰が、話をご都合主義的にハッピーエンドで終わらせず、人間の浅ましさ、業の深さを正面から描いているからでしょう。
幸福な話ばかりではないのに、おかしみがある。
このような小説を戦争中に書いたというところに、太宰治のすごさを感じます。
太宰の回心?――「盲人独笑」考
★★★★★
「盲人独笑」がおすすめだ。何がいいと言って、挿入された歌がいい。
「上もなき 仏の御名をとなえつつ 地獄の種を まかぬ日ぞなき」。
この作品のあとがきのようなところで太宰は、これは、葛原勾当の日記を借りて創作した、ある一時期の自分の姿だ、と書いている。ある一時期とは、いつのことだろうか。
太宰とキリスト教とのかかわりは、深い。そこで今挙げた歌の「仏」は、キリスト教の「神」に読みかえられないだろうか。そう私は考えた。
福永収佑氏は『太宰治論―キリスト教と愛と義と』のなかで、太宰はその友人に、「僕はキリストを見た!」と語ったことを紹介している。太宰は、キリストをその目で確かに見た。すると彼の「目から、うろこのようなものが落ち」た。回心したパウロのように。ある一時期の太宰の姿、とはつまり、キリストを見る前の、ある一時期を指すのではないか。太宰はキリストを見る前の自分を「盲人」にたとえたのではないか。――んにゃわきゃ、ないか。