インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

華の碑文―世阿弥元清 (中公文庫)

価格: ¥946
カテゴリ: 文庫
ブランド: 中央公論新社
Amazon.co.jpで確認
華の碑文―世阿弥元清 (中公文庫) 文庫 – 1977/8/10
元仲目線の世阿弥が新鮮 ★★★★☆
能の大成者・世阿弥元清の生き様を、その弟である観世四郎元仲の視点を中心に描いた作品。

世阿弥主体の作品だと、どうしても世阿弥作の能をベースに内面へ深く突っ込みたくなるのは必定で、そこへ偏るともはや世阿弥ではなく作者の意思が露骨過ぎて、場合によっては食傷気味に感じたりもするのだが……
その点、本作は純粋無垢に優れた兄へ傾倒せず、常に屈折した愛情で見つめ続ける元仲によって、世阿弥の人物像、周辺環境ともある程度客観的な解釈と判断で進む分、読み手も冷静に作品空間を楽しめる。
元仲主体であるから、当然彼の生き方も見て取る事が出来、かといって元仲の主観ばかりが反映されているわけでもないので、時には世阿弥の主観でその他の人物像が滔々と語られたりもする、この視点のバランスがいい。

実際元仲には共感できる部分が多々ある。
芸能民の処世術として、幼い頃から耐え難い現実を美しい諦観で受け入れているどこか表面的な世阿弥に対し、元仲は素直に抗う人間らしい内面性を持っている。と同時に、抗いきれない事実に対しての怒り、憎しみ、妬み、あらゆる欲望を満たす術なく、持て余し、泣き崩れる弱さも見せる。
そんな元仲は、作中誰よりも兄・世阿弥を愛し、誰はばかる事ない批判者だ。

副題に「世阿弥元清」としながらも世阿弥の能楽師としての姿に比重を置かず、元仲の目線をうまく広げて周辺人物へも多くの筆が割かれているため、後南朝ネタがしっかりクローズアップされていた事に感心した。
数少ない南北朝モノでその多くを占める世阿弥モノの中に、楠正儀は登場しても、その子まではせいぜい名前くらいしか出てこない。が、楠正勝をはじめ、正秀、正元ら楠三兄弟がちゃんと喋って、作品空間で生きている。歴史学的に観世家と楠家との血縁には懐疑的な意見もあるが、小説のネタとしてこれほど美味しい設定はないだろう。ここを突っ込まんでどうする!と、自分的には南北朝の片隅で声を大にして愛を叫びたいところなので(笑)、素直に嬉しい展開だった。

さらに悦ばしい事に、世阿弥の子・観世十郎元雅の人となり、生涯まで余すところなく描かれている。
しかも足利義嗣の「お気に入り」という設定で、南朝方にもがっつり加担している!
大和越智氏との浅からぬ関わりは研究によって示されているのに、創作の世界ではイマイチそれが活かされていなかったところ、これはポイント高い!

以上、世阿弥の能に殊更小説的な装飾や解釈をほどこすこともなく、並行して田楽や曲舞の文化的な流れも踏まえながら、逐一政治的背景を考慮し、そこに関わった人物の動向へと深く斬り込み、能という芸術の本質を貪欲に追究する姿勢が、真摯に伝わってきた。
芸能の光と影 ★★★★☆
室町時代は大変な時代ですね。政治の場での権力闘争が直接に芸術活動の浮き沈みに影響を与えてしまうのですから。またその政治がなかなか安定しないのですわ。もっとも歴史小説の常で、どこまでが史実で、どこからが虚構かがわからないのがこの作品の肝ですが。観阿弥、世阿弥の一生なんてまさにその変転の中での活動のいい例です。またそれは、芸「能」が生きていくためには、政治やパトロンとの様々な(肉体的なものまで含めて)接点を持たざるを得ないという現在の芸能界ともつながるテーマなのでしょう。この俗の中でどのようにして俗を永遠に残る「芸」へ昇華させていくのか、ここには世阿弥の考え方とその生き様が見事に描かれていきます。様々な登場人物と歴史的な権力者が室町の時代の中で描かれるためでしょうか、世阿弥のユニークな存在が浮き彫りにされます。ただ余りにも世阿弥の孤高さが意識的に強調されてしまうようですが。一方で、能役者を権力者との関係の中で対等な立場で、描こうとしたためでしょうか、この芸能のもつ特殊な存在性は背後に退いてしまいます。
瀬戸内寂聴『秘花』、佐伯晶『秘曲』との併読がお薦め ★★★★★
以前、佐伯晶の『秘曲』という小説を読んだことがあり、クライマックスの凄まじい感動と、そこに至るまでのシンドサとが記憶に残っている。佐伯晶という作家は多分男性と思われるが、女性から見た世阿弥の小説は本書と瀬戸内寂聴『秘花』が双璧であり、この三作を読み比べてみるのも一興と言える。
一貫して能を追求し続ける世阿弥の姿 ★★★☆☆
 この『華の碑文』は、サブタイトルにあるように能の大成者・世阿弥元清の生涯を、弟にあたる観世四郎元仲の目を通して描いた小説です。

 父・観阿弥による「曲舞」導入による猿楽能の変革、今熊野の演能による若将軍・足利義満との出会いと寵愛による栄光、観阿弥の死と近江猿楽・道阿弥への師事による方向性の転換、義満の死による没落、観世元重(四郎の子、後の音阿弥)の栄達と対照的に息子である観世元雅・元能兄弟の悲劇、そして自身の佐渡配島。

 こうした世阿弥という1人の天才の涯を、南北朝という血生臭い時代を背景にして、描ききっているように思います。

 タイトルにある「華」。『風姿花伝』のほか『花鏡』『至花道』など著書の題にも示される通り、生涯「花」を求め続けた世阿弥の、まさに碑文といえる内容をもっています。先に挙げた著作の内容も、分かりやすく、それでいて内容はそのまま、作中の効果的な部分において使われていることがまた、上手いなと感じます。

 印象的なのが、時流に翻弄されながらも一貫して能を追求し続ける世阿弥の姿です。美しい面だけではなく、稚児というものの闇の面も描きながら、それもまた能を追求するための手段としてしまう世阿弥。音阿弥に対しても、息子の敵として恨む心はありながらも、後継者として息子たちよりも適任であることを認め、後事を託していく姿。

 特に最後。世阿弥の死のシーン。世阿弥の死は、「能」が世阿弥という個人から解放されて約600年の後の現在まで、そしてこれからも伝わっていく礎となったことがここには描かれています。