しかし方言とは名作の中で「読まれる」ものではなく、生活の中で「話される」ものである。この企画は文学の名作によって全国の方言をつなげているが、それは人々が生活の中で用いている言葉ではなかった。そこにこの企画の限界があったように思う。次はぜひ、生活の言葉で「会話集」みたいなものを出していただけないだろうか?
ちなみに私は鹿児島の出身であるが、CDで朗読している和田周さんは鹿児島で中学高校時代を過ごされた方であるが、鹿児島の出身ではない。なので私にはどこか違和感の残る鹿児島弁の朗読であった。次回はぜひ、全ての方言にそこの出身者を起用していただきたい。
斉藤さんは言う。「私の考える美しい言葉の基準は、その言葉に『身体感覚』がどれだけ染み込んでいるかということだ。」と。方言にはその土地の風土が色濃く染み込んでいる。風土とそれを感じる身体感覚が作ってきたのが方言という文化遺産である。言葉が伝えられることで、身体感覚も伝えられる。
しかし斉藤さんが提唱するのは、もっと先を行っていて、標準語の身体モードから方言の身体モードにモードチェンジせよということだ。その状態で各地の方言に浸ることで方言の効能が現れるというのだ。あたかも温泉のように。
CDを聞くのに努力はいらない。また聞きたくなる、そんな魅力を持った言葉があふれている。訳者も朗読も一流をそろえている。時々聞いて、言葉のエネルギーを吸収したい。
しかし、著者も「名作『雪国』を名古屋弁で、『人間失格』を広島弁でやる。これだけでもう、ノーベル文学賞をなめているのか、という叱りの声が聞こえてきそうだ。」と述べているように、名作を方言でやるという企画はパロディに過ぎないと考えられがちである。ところが、本書に付属したCDで聞いてみると、その美しさは驚くほどで、方言は日本語の貴重な財産であることを思い知らされる。
実際、伊藤秀志氏による『大きな古時計(ZuZuバージョン)』や、「亜麻色の髪の乙女」、「サボテンの花」、さだまさしの「案山子」などの名曲を秋田弁で歌った『御訛り』は、発売当初はパロディだと受け止められていたが、伊藤氏の歌唱力や秋田弁訳のセンスの良さとも相俟って、その意外な美しさ、秋田弁と旋律の調和のよさに対する評価は高まっていったという例がある。
このように、日本語が世界に誇る奥深い魅力は方言にあるというのも一つの考えとして再評価されつつある。著者はニュースや天気予報を方言でやってはどうか、とも提唱しており、方言復活にかける著者の熱意は並々ならぬものがあるようだ。今後の展開に注目したい。