人質になったのはホソカワ氏、それにアメリカ人ソプラノ歌手のロクサーヌ・コスだけではない。ロシア、イタリア、フランスからの大使も含まれていた。犯人たちは小柄でおとなしい副大統領ルーベン・イグレシアスには何の興味もないらしい。そこで彼はすきを見て逃げ出すことに成功する。その間にもこの地で休暇を楽しんでいた赤十字のスイス人ヨアヒム・メスナーが交渉人として登場、取引条件や要求のくいちがいのせいで何度も行き来を繰り返すことになる。1週間、1か月…と月日ばかりがむなしく過ぎていくのだった。
リアリズムの何たるかを十分に心得たアン・パチェットは、人質とテロリストの間を魔法使いのように軽やかに飛び回り、その心境をつぶさに伝える。そこから垣間見えるのは、どの人物にも共通する「人間らしさ」のもつ深みだ。パチェットの語り口はほどよく詩的かつ音楽的であり、温かさとやさしさに満ちあふれている。初めてオペラを耳にしたある若い聖職者は、コスに対してこのような反応をみせる。
この世にこんな女性がいるなんて思いもしなかった。きっと神はお膝元に仕えるこの女性に御声をそのまま注がれているにちがいない。いったいどんな厳しい修行を積めばこんな声が出せるのだろうか。彼女の声はまるで地球の真ん中から響いているようだ。こうなるまでに彼女はどれほどの努力と精進を重ねたのだろう。気持ちを集中し、ほこりや石、家の床板といった障害物もものともせずその声を自分の足もとまで引き寄せ、体中に引き上げる。彼女の体を満たしあたたかさで昇華されたその声は、ついに白ユリのようにたおやかなその喉元から発せられ、天にまします神のもとへと届けられるのだ。