日本のある時代や文化を象徴する建築物を磯崎が、それに呼応する文学作品を福田が語るというのが本書の基本的なスタイル。たとえば東大寺南大門に対して藤原定家「明月記」、厳島神社と「平家物語」、大阪万博のお祭り広場には三島由紀夫という具合だ。とはいえ、ごく平均的な建築家と評論家ならともかく、この2人にそうした区分けはほとんど無意味らしい。はなから領域などないもののごとく、おたがい縦横無尽に日本文化全体を論じつくしている。その情報量や考察の深度に反して、両人とも終始楽しげであることがまた快い。それでいて、「反復の中で出てくる洗練というのが、……いわゆる日本的というものなんですよね」(福田)、「日本では、……(正統と異端のような)極端な対立の事例を捜すのが難しい。むしろ、……逸脱、挫折、変質、逃走、といったズレですね」(磯崎)というような、本質を抉る寸言が随所にちりばめられている。まことおそるべき書物といわねばならない。
一読して痛感することだが、文学であれ建築であれ、時代を画するものは、それ以前に存在したスタイルや区分を軽々と越えてしまう。吹き抜けという革命的構造を採用した安土城しかり、歴史的事件をあくまでみずからの内面にかかわる問題として取り込んだ村上春樹しかりである。だとするなら、本来の領分をはるかに超え、とてつもない広がりをもって活動するふたりの越境者が、文化の全体像を深い眼差しで捉え得たとしてもふしぎはない。いわば、本書そのものがひとつの文化史的事件だといっても言いすぎにはなるまい。(大滝浩太郎)