強引な推理仕立てで、当時を知らない読者を混乱させる劣悪作
★☆☆☆☆
レビューを見て期待して入手したが、一読して違和感を覚えた。
著者は経歴によると1920年生まれで1938〜1946中国に住みその間、新聞記者もしていたということだが、周のことを今回この本を書くまでほとんど知らなかったような記述が不自然である。周ほどの大スターとそのヒット曲および貝林/晏如を事実知らなかったのであれば、その自身の事情をそれなりに記述すべきである。また、作詞・作曲者に関してオリジナルといえる百代側の記載といわばそれをパクッたコロンビアやテイチクの記載を同列に扱って強引に推理小説仕立てにしているとしか思えない。当時を知るものにしたら貝林/晏如が真の作詞作曲者であることに疑問があるというのならその明確な根拠をまず示すべきである。そうでなければ例えば日本のヒット曲も50年経てばオリジナルと無断コピーの作詞作曲者記載が違うということでこの手の本はいくらでも書ける。
次に中国側関係者の証言であるが、1976年に一応の終焉を迎えた文化大革命から調査の時期はさほど離れておらず、よほど裏づけを取らなければ証言に信憑性を求めるのは無理である。ましてや過去にも問題の多々あったこの曲の場合なおさらである。
この曲の流行した当時を知らない若者ならまだしも著者はリアルタイムで知らなければ不自然な年代であり、強引に推理仕立てにして若い読者をいたずらに混乱させる劣悪作としか言いようがない。
ちなみに著者は推理小説作家でもある。
少し哀しさを感じてしまいます
★★★★★
『何日君再来』という曲(私は、おおたか静流さんの歌で聴きました)の、作詞・作曲者について、関係者の証言を綿密に追ったノンフィクションです。『何日君再来』は1937年に映画の中で歌われているので、本書の単行本が刊行された時点(1988年)では、50年ほどしか隔たっていませんが、日中の歴史に横たわる壁と溝の中で、真相にたどり着くには、さまざまな困難があったようです(いくつか、確認できていないこともあります)。
著者自身、1938年から1946年まで中国に滞在していただけに、深い思いがあるようです。青春時代を過ごした中国への熱い思いが溢れているのですが、時代のなかでの苦闘も感じられるだけに、全体に少し哀しさを感じてしまうのは私だけでしょうか?
追加です
著者がミステリー的な手法を使っていることなどを“批判”されている方がいますが、ノンフィクションの場合、著者が調査過程を含め記述していくのであれば、こういった手法はよくあることで、ノンフィクションを多少でも読んでいれば分かるはず(ジャンルは史伝となっているが森鴎外の『渋江抽斎』も同じ手法で、実際に謎解き的な面白さがあると書いている人もいる)。
また、著者の経歴に関して詳しく書けば、語学留学生として中国へ渡り、新聞記者になったのは1940年ごろのこと。『何日君再来』を周セン(王編に旋)が歌ったのは1937年、上海で製作された映画『三星伴月』の中でのこと。1939年に香港で製作された『孤島天堂』では黎莉莉も歌っている。著者が当時の中国で耳にしたとしたら、経歴を考える限り後者の確率が高い。だいたい、ヒット曲だからといって、誰も彼もが作詞・作曲者を知っているとは限らないのだ。また、今とマスメディアなどの状況が違っており、しかも著者がいたのが北京であったことを考えれば、詳しいことを知らないことはさほど不自然ではない。
それに百歩譲ったとしても、こういったことで若い読者の何を“混乱”させるからいけないのだろうか。それが全く分からない“批判”である。
「何日君再来」の作者、そしてその再来を追うドキュメント
★★★★☆
本書を一言でいえば、かつて黄金の声と称えられた中国の往年の大歌手、周[王旋](チョウ・シュアン)や同時代の上海芸能界に関わる多くの人物の評伝だ。ただその構成がなかなか凝っていて面白い。「何日君再来」という戦時中の日本・中国双方でヒットした流行歌をキーワードに、当時中国に滞在していた著者が、横浜の中華街でテレサテンが唄う「何日君再来」を偶然聴いたことをきっかけに、現代中国でのこの歌の再流行やこれに対する当局の圧力なども交えながら、詳細のわからない「何日君再来」流行当時の背景をさぐり、そしてこの歌の作者を探していく。
著者は8年もの歳月をかけて、様々な文献を調べ、李香蘭(山口淑子)を始めとする多くの関係者とのインタビューや手紙のやり取りを通してこのミステリーを解いていき、最後に作曲者本人にたどり着くまで謎解きの楽しさも味わえる娯楽読み物だ。ただ当の作曲者が文化大革命当時「何日君再来」が原因で迫害を受け、著者が出した手紙も検閲されているのには暗然とさせられた。それにしても「何日君再来」のようなすぐれた流行歌は、これを創った人間の企図や流行に圧力をかけようとする当局の意思とかかわりなく、大衆自身が好んで歌うことによって人々の間に膾炙し、後世にまで伝わっていくんだなあということを強く感じた。またテレサテンが、歌詞の最後を「再来来」と唄っていたとは気づかなかった。