ふ〜ん、なるほど!
★★★★☆
認知考古学という分野があることを聞いてはいたが、なかなか内容を知ることが出来ず、今回初めてその片鱗に触れることが出来た。
一読しての感想は、これは心理学の基本的問題なのだが、これは科学なのだろうかという疑問である。長年の世界的規模の考古学の資料をデータとして、論を組み立てる基本方針は「個体発生は系統発生を繰り返す」と「科学の定義をなすとされる比喩や類推の使用」の2つだけに基づいている。確かに、著者の「聖堂」を初めとする比喩の使用は巧みであるが、なにやら理論さえあれば、説明はどうにでもなるというマルキシズムの応用のような印象があった。
その意味では、「進化論は科学なのか」という議論にもつながるが、難しいことは言わず、冬の1日、暖炉の傍で読書の楽しみに耽ることもまた一興であろう。
認知考古学の良書
★★★★★
18ページにもあるように、本書は考古学のデータを援用して心の進化を考察するというよりは、心理学での様々な議論(フォーダー、カミロフ=スミス、スペルベルなど)を援用しつつ考古学的データを整理・統合しようという著作である。最も重要な概念は、おそらく認知的流動性(cognitive fluidity)というものであろう。ネアンデルタール人は現代の我々にさえ困難なほど優れた石器加工技術を持ち(ルヴァロワ技法など、160)、厳しい環境で生き残るために動植物について豊富な知識を持ち(170)、社会的知能もある程度は持ち合わせていた(177)。ではどうして、彼らと我々ホモ・サピエンスの文化の間には大きな隔たりがあるのか。ミズンによれば、この隔たりを説明するのがこれら三つの能力の間に認知的流動性が見られるか否かであるというのだ(9章)。例えば、動物に関する知識と技術に関する知識を流動的に結合させる事で、ある種の動物に特化した道具が作成できる(235ページの図などを参照されたい)。ホモ・サピエンスは各領域間の知識を流動させる事が可能となり、それゆえ彼らの文化は大きく発展したのであり、5万年ほど前に見られる文化のビッグバンはこの認知的流動性によって説明する事ができるというのである。
既に10年以上前の著作であり、現在ではミズンが想定していたような文化のビッグバン自体にも疑念が向けられつつある(すなわち、実は文化の進化がもっと連続的ものであったかもしれないという指摘がなされつつある)ようだ。しかし、広範な資料調査もさることながら、認知的流動性というアイデアも含めて現在の目から見ても十分興味深い考察が数多く見られ、本書が心や文化の進化の考察にとって重要な著作であることに変わりはないだろう。
原始人の心から現代人の心へ
★★★★☆
「認知考古学」とは発掘された遺跡や道具から、かつてその場所で生活していた原始人たちの精神がどのようなものだったのかを探るもの。
たとえば住居の状態から何人ぐらいの集団で生活していたのかといったことなどを推測し、その集団の規模が維持されるために必要な認知能力は何か、とか、この道具を作り出すために求められるのはどんな心的機能か(計算能力は必要か、計画性を立てることができなければならないか、など)いったことを推論する。
著者のミズンは現代の認知科学や進化心理学の知見を応用して、探偵さながらに祖先の心のあり方についての仮説を展開していきます。
教科書で背中が曲がって毛むくじゃらのサルが徐々に直立歩行の人間に進化していく絵を見たことがありますよね?ミズンはその心理版を作ろうとしていると思えば良いです。
何百万年前もの祖先からどのようにして現代人の心理機能が出来上がっていったのか。温故知新という言葉がありますが、ミズンはとんでもなく古いものから始めて新しいものに迫ろうとしています。
思わずほぉ〜っと唸らされる本です。
心躍る
★★★★☆
認知考古学の本です。さまざまな考古学的資料と進化心理学の視点によって人間の認知のメカニズムの発達についてのミズンの考えが書かれています。とてもおもしろいです。
しかし、これはミズンのひとつの考えであって実際そうであったかは断定できません。
それを頭のかたすみにおいて読めば害はないです。