しょうがないからついに買っちゃうっ
★★★★★
この写真たちにはほとほと感心する。
もう、しょうがないからついに買っちゃうっ。
この子供たち、実はぼくの育った時代、だいたい同級生に等しいんだろう。
今では、こんな遊び場はもちろん、さっちんたちの表情を見つけるのはむずかしい。
悩める永遠の少年老若男女のリポピタンデーに一冊。
どうやら、いつかしらぼくは、のら猫くんたちにそれを求めていたのかもしれない・・。
ちなみに、さいきんぼくは表紙のさっちんのポーズを癖としている。
こっち側がアラーキーじゃなきゃ“向こうから来ない”んだよね
★★★★☆
近著「東京人生」には「偶然出会うことが重要だね。探すのではなく、向こうからくる。子どもも、女も」ってあるけど、それにしてもよく出会ったな、さっちん。この表情!この動き!こんな顔カメラに収めるアラーキーも、もちろんすごいんだけど。でもさっちんはシンボルであって、ほかの子も一様に、その表情には好奇心、たくましさ、みなぎる生命力が感じられるんだよな。明日への希望っていうかさ。それはいまの「かわいい」ってのとは違って、時折、その表情には怖さすら感じる。視線の強さに思わず顔を背けちゃうっていうか。こちらの矮小さが見透かされちゃうようで怖いんだよね。子どもって無垢で純真だけど、無知で邪悪でもあってさ。おとなは繕って巧く生きてるから、予測不能、制御不能な子どもって存在を時に持て余すんだよな。いまの「かわいい」ってのは、断然自分優位で、小さくて、華奢で、か弱いものに対する嗜好だからね。アラーキーがあとがきで書いてるように、それを時代のせいにしちゃいけないんだろうけど、明らかに今の時代にさっちんはいない。それは子ども側ではなくて、子どもをどう捉えるかっておとな側、おとな自身の問題。やっぱ、こっち側がアラーキーじゃなきゃ、今も昔も“向こうから来ない”んだよね。
それにしても、鼻くそほじったり、あばら浮かせてガイコツの真似したり、男の子同士で無邪気に抱き合ったりなんて写真は、きっと誰もが、かつての自らの記憶を呼び起こすよね。団地アパートの窓に所狭しと干された洗濯物や、紙芝居屋のおじさん、三輪トラックっていった背景とともにさ。
巻末の若かりし日のアラーキー、そのおどけぶり、シャイな表情がさっちんソックリでご愛嬌である。
対等のエネルギー
★★★★★
アラーキーが若い頃に撮った写真。
子供の生命力と対等に張合ってシャッターを切ってる。
まばたきの次元でがシャッターを切れる人だと思う。
だからさっちんに限らずどの作品にもカメラという媒体を感じ
させない。それは、自然体という事ではなくて、写真を見る者が
アラーキーの目になって写真に切り取られた対象を追体験する感覚。
写真が生きている。艶かしい。
まさに写狂人のなせる業・・。
氏の個展で何度かご本人を見掛けた時、その場のエネルギーが
全部吸引されていくかのような、強力な磁石のような存在感が
ありました。声もでかいし。
すごいぞ、アラーキー
★★★★★
実は、この写真集を見るまで、アラーキーはただのエロイ写真家かと思っていました(奥さんの写真集を除き)。だけどこの「さっちん」を見て、これがアラーキーの実力かと思い知りました(というか、私がそのすごさを分かっていなかっただけなのか)。
私はときどきこの写真をペラペラめくって、読み返しています。
すると、体の中に眠っていた「さっちん」のような子どもがよみがえり、自分が気力・体力を取り戻した気分になるのです。
何も考えず、ただ無心に、棒きれをもって友達と公園、ビルの中、道路を駆け回っていたころ、そのころの空気の臭いや汗を感じます。
子育てバイブルかも
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子育て真っ最中のあたしには、今この瞬間をフルスロットルで生きるさっちんたちのエネルギーがまぶしいです。アラーキーは何の思惑も持たず、こどもたちをコントロールしようなんて気持ちまったくなくシャッター切っているのでしょう。だからこそ、こどもたちのリアルな輝きが伝わるのだと思います。天才のなせる技!? 凡人は自分の思い通りにこどもをコントロールしたくなります。でも、あたしもアラーキーの心境で、目の前のこどもの姿受けとめたいです。それがこどものしあわせなんだと、さっちんの笑顔が語っています。 実は子育て書だったの? 天才の仕事は何にでも通用しますね。