プロジェクトの始動、OBによる早稲田大学かくあるべし論、奥島孝康総長へのインタビューの3部構成を取っているが、最大の読みどころは改革のカギを担う各種プロジェクトの実態に迫る中核部分だ。学部の垣根を取り払うオープン科目の設置をはじめとする「授業改革」、大学院教育の強化や企業家養成を推進するインキュベーション・オン・キャンパスの標榜による「グローカル地球市民の育成プログラム」、生涯学習機関への取り組みやスポーツの振興による「早稲田らしさの復活」―― の3点にスポットを当てている。
とはいえ、SFC(湘南藤沢キャンパス)の開設など時代に即した教育改革を進めてきた慶応義塾に対し、これまでの早稲田の学校経営が常に後塵を拝してきた観は否めない。今回の大学構造改革による早稲田の魅力復権の課題は今後の経緯を見守るしかないだろう。しかし、本書で語る学校関係者の姿勢を見ると、間違いなく言えることが1つだけある―― 新たな胎動はこれまでにない強さと熱を帯びている。(江田憲治)
また、商法や会社法の専門だけに、経営に対しては強いリーダーシップを発揮したようだ。
ホテル経営や人経費の圧縮など積極経営路線を貫いた。
そのおかげで早稲田大学はAA+という長期優先債務格付けを得たことは言うまでもない。
しかしながら肝心の教育に関しては問題が多かった。
所沢の人間科学部はSFCに対抗したものの、中途半端な状態である。
司法試験や国家公務員試験合格者を見ても、資格予備校に通ったから合格できたという人がほとんどだ。
組織のための大学を優先するあまり、学生のための大学作りを怠った点は否定できないだろう。
またそれに対して、学生側から何も行動を起こさなかったことも問題がある。
「約50人の教職員への取材や学生の声を交えた」と記載されているが、奥島氏のワンマン経営には異論を唱える教員・職員や学生も多く、この本が早稲田大学の宣伝に利用されていることを頭の片隅に入れながら読んでほしい。
愛校心と虚栄心があることはいいことなのかもしれないが、それが早稲田を知らない人が読めばただ呆れるだけであろう。
著者の言うとおり、それまでの早稲田の荒廃ぶりには目を覆うものがあった。しかしその原因は学生が怠惰であったのではなく、まじめに勉強すればするほど損をするという講義の内容にあった。早稲田は学生一流講義三流と言われていたのだが、その三流の講義をする教師もかつては一流の学生であったなどという言葉のあやで学生を納得させることはできなかった。
本書を読めばわかるように、現在の早稲田は当時とは比べられないほど良くなっている。東大と比べてどう、慶応と比べてどうといった陳腐な視点から早稲田を語るのではなく、学生のための大学とは大学とはそもそもどうあるべきなのかという本質的な問題意識が大学の評価を高めるのだ。
どうしようもない文系ローカリズムに堕した早稲田を、いわゆるグローカルユニバーシティーを経て世界に通用する教育機関に引き上げようとする!著者の努力には脱帽したい。たんなるアジアの地方大学であり続けるのではなく、地球的視野で学問を追及する時代にふさわしい大学を目指して努力するWASEDAに期待しようではないか。
最近、一部国立大学関係者が、数学力の欠如を根拠に、日本の私立文系は学力崩壊の典型であり、私学最難関の早稲田大学も例外ではないとする議論が見られる。日本の私学文系の卒業生は国際水準に達していない、彼らが日本の国を滅ぼしていると。
しかし、大学の受益者は国家ではなく、学生自身であり、学生自身が責任をとるのである。彼らが最終的評価をくだすべきである。国民一般ではない。
私は、早稲田大学はいい大学だと満足している。将来の責任は、私自身で負うつもりである。
しかし、早稲田大学も組織であり、社会一般の病理から無縁ではない。学生が教授を評価するシステムは存在しない。学生の関心からずれた知識しかない、どうしようもない教授もいる。彼らをバイパスできないのが残念だ。アメリカの大学に劣るのは事実だ。
以上のような早稲田の現実は隠されている。学生のためではなく、教授の虚栄心のためのシステムは存在する。だから、マイナス一点ということで、星四つとする。
ただし、著者および早稲田の教授たちの名誉のために言っておくが、彼らのほとんどは、誠実に義務をはたしている。