「試練」を与えるオザワショウイチ
★★★★★
往々にしてこの手のムック本の原稿というのは各々レベルや言うことがまちまちで、読後にはさっぱり忘れてしまうものが多い。しかしながら本書ではひとつの「スジ」が看て取れる。
別の本のなかで小沢は、「絶倫」だった頃の小沢は「初代」、衰えた小沢を「二代目」、と語っている。「成熟」の過程のなかで自らの「演じ方」を代替えることにかくも自覚的であることそのものが驚きであり、かつその「醒めた自省」には諦念すら帯びている感がある。本ムックのなかである論者が指摘しているように、こうした初代「オザワ」の下降志向というか、絶望感のようなものは、二代目「オザワ」のノスタルジアな振る舞いと実は層を成している。そこには安寧はなく、人が成熟し、時代につき合うための「試練」をわれわれに課している。
「オザワ」は恐ろしい人なのだ。
オザワは読者に試練と体験を強いている。「絶倫」に心寄せる読者には「成熟」を、「成熟」とノスタルジアに心寄せる読者にはその基層で口を開けている絶望を。本ムックのなかの、PC的な論攷と、追悼文みたいな論攷を除く、いくつかの論攷と、いくつかの過去の文章・座談を星座のようにつないでいくと、こうしたオザワの世界がうっすらと浮かび上がってくる。ノスタルジアの底にある暗鬱な世界と、そこに生きることへの共感をともに引き受けることの困難さ。齢80のオザワの黒々とした眼差しは、「試練」を忘却したこの全体主義の時代をどう捉えているのだろうか。