近年読んだ哲学書では最高の本
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時局や世相についての発言も増えてきた内田氏の、しかしこれは真面目で本格的な哲学本。難解をもって鳴る(というか、何を言っているのか全くわからない!手掛かりさえない!)レヴィナスの著作を横断しながら誠実に読み解いており、レヴィナス入門書としても最良のものであろう。レヴィナスの異常なまでのワケのわからなさというのは、一種の「詩」として雰囲気で理解出来なくもない後期ハイデッガーのミステリアスな存在論や、自前で仕立てたキーワード群が事前説明なしにペダンティックに乱舞するドゥルーズ=ガタリの大著と比較しても際立っており、そういう意味でも本書に出会えたことはありがたい。
レヴィナスの描く主体は、常に倫理的な相貌を帯びたものとして現前する。自分のなしたこと以上の責任を負うという「有責性の過剰」=「私」(主体)の成立、つまり不条理を他者に先立って自分の責任として引き受ける度量を持った者だけが「成熟した人間」(大人)になれるという思想は、例えばタフなビジネスのシーンにおけるリーダーの意思決定にも、こういった要素はあると思う。「ギリギリの条件下での腹の座った決断」「清濁併せ呑む」(ちょっと違うかな?)…というように。幾分唐突ではあるが、災害の被災者や戦争での死者に対して安寧を祈る存在としての天皇や、人間の犯す悪に対して無条件の慈悲と救済を提供する阿弥陀仏なども、「有責性の過剰」であろう。
私事だが、本書をちょうど離婚調停中に読み、様々な人生の理不尽を呑み込まざるを得なかった状況とオーバーラップするものがあり、非常に感慨深かった。なのでこれは「役に立つ」哲学本でもあるのだ。全く関係のない連想だが、“Nobody's fault but mine” というブラインド・ウィリー・ジョンソンのブルース名曲(レッド・ツェッペリンもカバーしている)の歌詞のフレーズが頭の中にこだまする。
もっともわかりやすい内田樹入門
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「本を書くときのボクはウチダというキャラ」と語る内田樹は、江戸戯作者から大宰・安吾という路線に通ずる精神を共有しているとみてよいが、敬愛する同タイプの伊藤整が誤解され続けてきたのと同様、内田樹の論旨も誤解されやすい要素を持っている。それが「真面目」になった分だけストレートに表出されているために、わかりやすいレヴィナス論、というより、内田樹論、となっているように感じた。
いちおうレヴィナスについて内田の理解を書いておくと、フッサールの現象学的視点を書物と愛(するひと)という対象に投影したのがレヴィナスだった、というものだが、レヴィナスにまったく興味のなかった評者でも、これはなるほど、と眼を開かされた論点であった。本書での内田は師を崇めるレヴィナスを徹底的に擁護しているが、その擁護なくしては豊かな意味を汲み取ることができない、ということを、本書の存在によって説得力を持って示している。それが本書の一番の存在理由であり、われわれは信奉する本や師に対してこのような態度で臨むことが大切である、という内田の主張は十分に納得できるし、またそうありたいと思う。もちろん批判的精神は大切だが、万人から批判を受けずに受け入れられているものには批判的な眼を、そしてレヴィナスのように、著者が予期可能であったであろうあまりにも定型的な批判を受けているものに対しては、肯定的な読みを考える、というのは、読書におけるひとつの基本的な姿勢ではないのだろうか。