自分の身を自分で守ることを放棄したものが尊敬されることはないのです。
この自称「平和憲法」さえなければ、これまで日本は一人も殺さずすんだのに、この押し付けられた占領悪法のおかげで、途方もない加害者、殺人者になり、戦前に引き続き人類史上の巨悪となっているのである。
日本がもし、スイスのように自主憲法と徴兵制を実施し、市民一人一人が真に自分の命を賭けるべき交戦のみを自らと国家に課していれば、
これまで誰をも殺す必要はなく、朝鮮やベトナムやイラクの戦争など参加する必然もなかったことは明白である。
だが、この平和憲法という奴隷の律法によって、自分が殺人者になっている事すら気がつかないのである。
奴隷は盲目である事によって、自らの判断に責任を負わない。
そして奴隷であり続けるために盲目に映る幻影に逃避し、自らが奴隷であり盲目である事から目をそむけつづける。
著者はまず、日本国憲法第九条を否定=改憲しようとする人々の主張を拾い出し、そうした意見が現在、多数のものとなりつつある現状を紹介しながら、《わたしたちがいま何を失おうとしているのかについて》考えることを語りかける。
人々の実感としては既に過去のものとなって久しい「戦後」という時空を再検討し、「必要悪」としての軍備や「安全保障体制」の必要を唱える《現実主義者》の言葉には、そうした思考を拠り所とした20世紀こそが虐殺と難民の世紀(二億人に及ぶ人々がこの一世紀間に「戦争」によって殺され、その死者のほとんどが非戦闘員である市民だったこと、さらにそうした軍隊による死者の多くが「敵国」の人間ではなく自国民であったこと、等)であったという「現実」を直視するように喚起する。
このように説き起こしたのち、日本国憲法の制定過程を簡略に記し、政府(為政者)の視点からではなく、生活者(市民)の側から考えることに注意を促しつつ、そうした立場から、《政府に与えられていない権利のひとつ》として《戦争をする権利》(交戦権)を位置づけることで、改憲論の主軸である「日本国憲法は占領軍によって押しつけられた屈辱的な代物」とする「押しつけ憲法批判」や、日本も「自衛のための交戦権を持った普通の国になるべき」だとする「普通の国家」論者たちの視点と議論をともに相対化する立脚点を示す。
私たちに交戦権を行使できる「普通の国家」は必要なのか、いや、それ以前にそもそも戦争が必要なのかという基本的な視点へと立ち帰らせ、「子どもとともに」戦争と平和について考えるための優れたテクストとして薦められる好著。