功利主義的個人主義とは、この世はゲーム、勝てばいいんだ、という外向きの個人主義。表現主義的個人主義とは、要は「自分さがし」、内向きの個人主義。アメリカ人は人生を、このふたつの個人主義のコトバで語る。たとえば、いっさいが自分にとっての損得計算であるように、あるいは自己の内側から「涌き出た」もののように語る。
この二つの個人主義の結託が、原則的自由主義と競争社会を支えてる。また個人主義が「ウィナー・テイク・オール」的な、あるいは「オール・オア・ナッシング」的な傾向の元にもなっていている。
自己救済や独立独歩のレトリックはもっともらしく、しかも美しく聞こえる。けれども、それは「個人主義」という心の習慣がイメージするようなものではない。市場経済でメジャーなプレイヤーは大抵は自由競争をかなり回避できる(そして回避できた分だけ儲けてる)。一方で、回避しきれない有象無象の、無数の、つまりは無名のプレイヤーたちが、たとえば最低賃金でファストフード店で働く。
みんなが挑戦し努力すれば世の中よくなるというの考えの裏で、結局のところ弱者が切り落とされ、救われた者たちも生活に激しい負担を抱える。非適応組はいうにおよばず、適応組の中産階級においても、突然の解雇や地域の環境の悪化など、様々なストレスにさらされている。
時間的なゆとりを失った家庭においては、子供や女性に皺寄せが行く。経済中心主義はCare(世話=注意)の危機を招く。こうした注意力散漫は社会全般に蔓延しており、これが民主的な社会を掘り崩す深刻な要因となるとベラーは見ている。
この本の続編『善い社会』で、ベラーたちは結論の章に、「民主主義とは注意を払うことである」タイトルをつけている。