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死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズ ケアをひらく)

価格: ¥2,160
カテゴリ: 単行本
ブランド: 医学書院
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おススメします ★★★★★
看護師・介護職に就いている方なら心のバリアとして活用できるんではなかろうか

コミュニケーションを通しての職責が強い分、道しるべになる一冊です。
興味深いオカルト本です。 ★☆☆☆☆
内田樹氏の資質を端的に表す、ある意味内田氏の代表作といっていい一冊です。
要するに、この人、オカルトの人なんです。まともなアカデミズムやジャーナリズムの文章が書けない人です。
私、中桐(なかぎり)は、彼の特徴・癖を次のように分析します。

・客観的なエビデンス、論証抜きの断定癖
・自己の凡庸な発想、思い付きに対する過剰な意味付け
・我田引水
・しばしば不明瞭に陥る論旨
・無意味な問題提起
・固有の専門性の欠如
・他分野への過剰な関心と無責任な言及
・基本的に頭が悪い

(なお、蛇足ですが、似たような傾向に養老孟司氏がいます。もっとも、養老氏の場合は固有の専門性はありますが。養老氏と内田氏が新潮社から共著書を出しているのは、興味深いところです。)

上に挙げた特徴が、本書において余すところなく噴出しています。
「死」というキーワードだけを駆使して、延延と脈絡なく駄文が続きます。ある意味、スゴイ文章力です。
結局のところ、本書では何も語られていません。「死」だけを用いて性愛論・家族論を語り、突如一方、社会論、身体論、政治論、貨幣論、哲学、西洋史等を語り・・・・・。
これら相互に何の関係性もありません。論理性がみられません。
しかも、目も当てられないのは、個々の記述は、学術上正当な学説・見解ではないということです。全く出鱈目です。内田氏の只の思いつきに過ぎません。
「死」という大テーゼを掲げて、振り上げた拳を降ろすのに困ったかの如く、要所要所でトンでもオカルト言説を撒き散らして本書は終わります。

スゴイですね〜〜。

それでも読者が一応、最後まで読んでしまうのは、内田氏のトリビアとボキャブラリー故です。
前述の通り、内田氏に専門性と論理性はありません。一方で、どうでもいいような、およそアカデミズムとは無縁なトリビアな雑学には精通しています。あと、異様に語彙が豊富です。それ故、脈絡のない、トートロジー(循環論法)・同語反復・・・要するに、駄文という意味ですが・・・については、特別な筆力を発揮します。
本気で学問をしたことのない人(要するに、おバカ〜という意味ですが・・・)は、そんな内田氏の文章にコロッと幻惑されちゃうんでしょうね。

写真で覗う限り、内田氏は結構イケメンおじさんです(いや、もう老人か)。私は氏の著書を読む度に、ジャパネットたかたの高田氏と居酒屋ワタミの渡邊氏の風貌が浮かんできます。無意味な、口先だけのトークが上手な中年おじさんという意味で。

レビューの角度を変えます。
本書の版元は医学書院です。医学書院は医学系出版社としては、一流の版元です。昔も今も、私は同社の教科書・雑誌等を購読しています。
しかし、残念ながら今回は、同社に対して苦言を呈します。
外科系の臨床医である私は、本書において無意味に、軽々しく「死」が語られることに嫌悪感と違和感を抱きました。
内田氏は所詮素人で、何も知らない人ですから、その罪を私は許します。
しかし、医学書院の担当者は一体何を考えているのでしょうか。こんな駄本を出すなんて。
あなた方の企画・編集意図は、何なのですか。
今後は、このような下品な汚らわしい書籍を出さないように、配慮して戴きたいものです。


謎は謎のままに ★★★★★
身体は正直。心が気がつく前に、身体が気が付いている。身体の声が聞こえなくなったらヤバイなぁと思うけれど、現代社会での喧騒の中では、「感じる」能力を鈍化させることで自分を守ろとしている。それが当たり前になってしまうと、だんだん身体は「感じる」能力を失っていくのだろうけれど、その代わりに、「頭」で考える事で、なんとか状況に適応しようとする。豊かな感性を失うことを代償に。
でも頭で考えたことって、計算が入ってたり、人真似であったりして、自分のオリジナルな感じ方ではないんだよね。それでもいいけれど、これって、危険なことじゃないかと思う。
身体の声を聞くというのが、如何に大切か。
自分の感じ方や考え方を大切にしたいものだ。

この本のなかに、村上春樹さんの引用がでてくる。
「よい文章って、身体を使って書いている。」って。
人と話してるとき、言葉の身体性って凄く伝わってくるけれど、きっと、書いているときも身体を使って書いているときって、読み手にそれが凄く伝わる。
そういう文章を書いているときって、何回も書き直したくなると思うのね。これは、自分が感じていることにピタッと来ないなとか、敏感に感じ取れる。それで、文章が精緻化されていく。
もともと”シャイ”な人は”クリアカット”に、”クリアカット”な人は、”シャイ”に書いてみるっていうのも、確か出てきたような気がするけれど、なるほどなと思った。バランスが取れそうだ。
それから、「死者」の話。
死者の声は、わからない。
聞こえたとしても、何を言わんとしているのか?
存在するのとは別の仕方で、そこにあるけれどないものとして、その声に耳を傾ける。
謎を謎として、大事に残しておくこと。
わからないものだからこそ、わたしたちに考えさせてくれる。そして、死者から送られてくるメッセージは、わたしたちが聞きたがっていることを、自分宛てに送り返されたメッセージであって、それが出来るからこそわたしたちは人間なのだ、、、ということが書かれていて、とても考えさせられる本だった。
今年の内田樹では今のところベスト ★★★★☆
 最近、著者の本が大量に出版されているが、その中では本書が一番内容的に優れていると思われる。その理由は、他はほとんど対談本であること。別のレビューで書いたが、内田樹は本当に対談がヘタだ。ほとんど相手が何を話しているかということに注意を払わず、自分の興味・関心の枠内でしか話をしない。独演会になってしまうこともしばしばである。もうひとつ、レヴィナス・ラカン本は、両者に興味のない読者にはあまり得るところが少ないからである。そういう意味では、本書はさいきん著者が力を入れている武道論・身体論に繋がる内容で、かつ正真正銘の独演会である。そういう意味では内容はある程度保証されたようなものである。
 しかしながら、近年の内田おじさんの発言はだいぶパターン化されてきた。本書も例に違わず、従来のおじさんの主張の繰り返し、または主張の延長上で容易に導き出せる話が大半なのだ。というわけで、彼の以前からの読者にとっては、それほど目新しい内容というわけではない。
 しかし、わかっていても、「何か面白いことを言ってくれるだろう」と手に取ってしまうのがファンというものである。同じ内容といっても表現が少しずつ違っていたりするのでそれなりに楽しめる。むしろ、今のところはじめておじさんの本を手に取る読者の方にはよいのではないか。
他者のでっち上げた本 ★★★★☆
 著者は本書とほぼ同時期に『死者と他者』を出版している。当然ながら主題も共通部分が多く、いずれも読ませるのだが、私としてはどちらかと言えば本書の方をお薦めしたい。それは、本の成立経緯にかかわっているように思う。
 著者あとがきを信じるなら、本書は版元編集者がでっち上げてしまったものらしい。著者が仕事を断った(つもりだった)のに、カルチャーセンターでの著者の「身体論」講演に編集者が通ってきて録音機を回し、著者が「いったい何をしているのかと訝しんで」いるうちに「さあ、原稿が揃いました」と宣告されてしまったそうで、「いったいいつのまに私は一冊本を書いてしまったのであろう」などと狐につままれたような気分でいたらしい(p242)。
 『死者と他者』の稠密な文体からは、著者が執筆に精魂を傾けた様子が伝わってきたし、縫い目の見えぬほどに滑らかで美しい物語を紡いでいるとも思うのだが、同時にナルシス的な閉鎖性をも感じてしまう。対して、本書はまさに他者が作り上げた書物であり、著者を不意打ちしている感触がある。著者の主張からしても、本書のほうがコミュニケーションのあるべき姿ということになるのではないか。無防備な言葉を拾い上げた結果、かなり独りよがりで杜撰な(と私には思える)論も散見されるけれど、それはそれでいいのではないか。
 個人的には、まえがきp32辺りの「夢の文法」に絡めた議論が興味深かった。すなわち、私たちは「まだ人間でない状態」と「人間になった状態」との間で日々往還を繰り返しており、「人間はそのつど人間として再生する」という仮説。
 ただし私は基本的にはこの著者を「おじさん的ロマン主義者」と位置づけており、読みはするし面白く感じつつも、距離は保ちたい。