みっちり読むにはやっぱり原書
★★★★★
岩波文庫の翻訳を読んで、とても気に入ったので、原書できちんと読みなおしてみようと思って購入しました。今から150年も前の作品ですが、単語の使い方が少々古風で少し辞書が必要な以外は、とても綺麗な英語で意外に読みやすいです。ところどころに現代の研究者による簡潔な註がついているのですが、これが意外に面白くて、じつは作者が当時の法律をちょっとばかり誤解している点があるとか、Fosco 伯爵夫人が伯爵のために年中タバコを巻いているのは、英国で最初から巻いてあるタバコを発売し始めたのはこの作品の舞台になっている年よりもあとだったからだとか、ただ原文を読んでいるだけではわからない当時の社会の微細なひとコマがわかって興味深いです。
翻訳の3倍ぐらいの時間をかけて(Fairlie 家の系図を空白ページにメモしながら)じっくりと読みましたが、翻訳だと気軽に読み流していたところに注意が向いて、「あれ?こんなシーンがあったっけ?」と思って翻訳を見直したりしたものです。この作品は、謎解きももちろん面白いのですが、当時の社会の様子や貴族たちの生活が入念に描かれていて、そういうところをじっくり味わいながら読むには、やっぱり原文を丹念に読むのがいいなと実感しました。
この本を「探偵小説の元祖」などと形容するのは、誤解を招くように思います。この作品で、犯罪らしい犯罪が出てくるのは、かなり後の方になってからのこと。のちに英国の首相になるグラッドストーンが、この本を読んでいてやめられなくなって、予定していた観劇をキャンセルしてしまった、という逸話が、本書の Introduction に(岩波文庫のあとがきにも)紹介されていますが、読者がそこまでこの物語にのめりこむのは、犯罪の解決が見たいからではなくて、物語の柱をなしている2人の女性、Laura Fairlie と Anne Catherick が、このあとどうなってしまうんだろうということが気になって仕方がないからですね。特にこの「白衣の女」Anne Catherick が、なんともいえず気の毒で、あわれで、そこにこの物語から離れられなくなる理由があるという(私のような)人は、少なくないんじゃないでしょうか。可憐で一途なこの2人の女性にまた会いたくなって、何年かしたらまた本書を開きたくなるだろうなという予感がしています。