流麗な訳であたかも舞台を観ているよう
★★★★★
云うまでもなきチェーホフの白鳥の歌。様々な登場人物たちの別離と新生そして死が交錯し共鳴し合う最終幕は、何とも云えない読後感。世紀を超えて多くの人々に愛されてきたのも、うべなるかなである。
「さよなら、お家、さよなら、古い生活!/こんにちは、新しい人生!」(129頁)
「ああ、わたしのいとしい、なつかしい、美しい桜の園! わたしの命、わたしの青春、わたしの幸せ―――さよなら・・・・・・、永久にさようなら!」(130頁)
「人の一生、過ぎれば、まこと生きておらなんだも同然じゃ・・・・・・」(131頁)。
小野理子氏による新訳は、(意味の取れない箇所も散見されたが)活き活きとした台詞遣いで読みやすく、素晴らしい。挿入された写真も舞台の状況を容易に理解させてくれるし、訳注が巻の末尾一括ではなく各頁にさりげなく掲げられているのも大変読みやすい。(ロシアの人名はどうも頭に残りにくいので、欲を云えば、栞に登場人物一覧が書かれていれば最高でした。)
さあ、ようこそあなたも桜の園へ。
悲劇と表裏一体の喜劇
★★★★☆
副題に「四幕の喜劇」とあるように、『桜の園』は紛れもなく喜劇である。どの点に於いて喜劇なのだろうか。桜の園を所有する地主階級の風刺に於いてではない。人物個人の風刺に於いてでもない。この作品が喜劇であるのは、社会やそれを構成する人間の滑稽を風刺しているためではない。人間全体そして人間性を全く肯定している点に於いて喜劇なのである。
確かに、個々の人物は皆滑稽な面を備えてはいる。財産が底をついて尚浪費を止めないラネーフスカヤ、大学生ロパーヒンの無邪気な理想を全く疑わない世間知らずのアーニャ、従僕である自分の立場も弁えず周囲を冷笑してばかりいるヤーシャ、等々。しかしチェーホフは、これらの人物を冷笑すべき、風刺すべき人々としては描かない。桜の園は血の日曜日事件を控えた帝政ロシアの象徴として、個々の人物は各々の階級の象徴として描かれてはいる。だが、何れも何かの罪を負ったものとしてではなく、ただ今ここにある、今ここにいるものとしてだけ描かれる。最後に旧世代の象徴であるフィールスが、売られた屋敷で一人死ぬが、それとても今此処で死ぬべきだったというだけである。
悲劇と喜劇は表裏一体のものであり、悲観が勝った時には悲劇の相、楽観が勝った時には喜劇の相となって現れる。笑いはどちらに於いても起こる、或いは起こらない。チェーホフのこれまで人間を描いてきたなかでは、否定的姿勢が勝っていたが、1890年代後半から肯定的姿勢が勝るようになり、『桜の園』ではそれが頂点に達しているように見える。
喜劇「桜の園」………名訳です
★★★★★
この手の海外文学は新しく訳されるたびに
文章と感動のレベルが下がっていくのが常ですが
この小野さんの「桜の園」の訳は違います。
非常に読みやすく、各登場人物に感情移入が出来る作品になっています。
文体は丸みを帯びた暖かい感じであり、桜の園消失の存亡の中にも
自分のペースを失わずに生きている少し哀しくて可笑しい人々が生き生きと描かれています。
桜の園本来のコメディの趣旨を生かした日本語訳としては
多分唯一のものではないでしょうか?
訳者のあとがきを読むと全登場人物と作品に対する愛情がひしひしと感じられ
この作品の登場人物の生き方も欠点もその人物の個性と愛着を持って語り
訳されている台詞は登場人物の感情を良く吟味して訳されているように見受けられます。
通常は没落地主の悲劇性を強調する解釈が多いのですが
この訳文ではむしろ新しい時代に旅立っていく人々の明るい未来が垣間見えます。
そうした新時代の幕開けの中で90近い執事のフィールスが桜の園に留まるラストは泣けます。
各人が新しい人生の旅立ちの為に駅に出かける中で
桜の園を人生の終着駅にしなくてはならない老人のぼやき。
この訳文で初めて涙が出たシーンでした。
小野さんは「ワーニャ伯父さん」も訳されておられますが
是非「かもめ」「三人姉妹」も訳して欲しいものです。
時代が変わるとき
★★★★★
それまでに持っていた権益を失って落ちぶれる人と新しく力を持つ人が現れるのは世の常ですが、その様が非常にリアルかつ切なく描かれている印象です。
特に、ラネーフスカヤ夫人のどうしようもなさ(彼女はとても良い人なのですが、状況の変化に合わせて自分が変わることができない)が非常に印象的です。
一方で、若い人たちは変わっていくし、新しい世界や生活に向けた生き生きとした感覚がある、というところも好きです。
戯曲を読むより
★★★☆☆
戯曲には読みやすいものと読み難いものがあります。大部分は後者だと思いますが、例外的に小説と同様に読みやすいものも存在しますが、本作品は後者だと思います。劇場で観劇した方がこれだけ読むよりも楽しめるのではないでしょうか。