生命保険のセールスの仕事から引退したネイサン・グラスは、家族とも疎遠になり、癌治療後の不安に満ちた状況にある。「静かに死ねる場所」を探している彼は、「ブルックリンを勧められた」。しかし、ブルックリンを拠点に創作活動をしているポール・オースター(『Oracle Night』)が書いたこの生き生きとした小説の主人公は、その代わりに、魅力的な人々があふれる活気ある心優しい地域と出会う。それらの人々には、大学を卒業したもののタクシー運転手をしながら魂の安らぎを探求するネイサンの甥のトムがいる。トムの9歳になる物静かな姪は、たった一人でトムの家を訪れる。情緒不安定な母親に連れられてではなく、だ。それから、『緋文字』の贋作原稿を売ろうと計画している派手な書籍商もいる。彼らの人生とかかわるうちに心が癒されていくネイサンの姿を描きながら、オースターはアメリカ文学における「聖域」という主題について深く考えていく。ホーソンやポー、ソローなどが、ピカレスク小説の要素にロマンティシズム、南部ゴシック、ユートピアへの憧憬を織り込みながら築いたテーマだ。オースターはドラッグクイーン、不遇なインテリ、汚いスプーンを出すウエイトレス、中産階級など、この地域に暮らす多様な人々に温かい視線を注ぎ、ブルックリン橋を照らす月に詩を捧げる。本書の中心に浮かび上がってくるのは、ブルックリンの最初の詩人といえるウォルト・ホイットマンの魂といえる。オースターが優雅に自由気ままに展開していく物語は、感傷に陥らない程度の十分な陰りをおびていて、説得力をもつ。本書は愛情をこめて描かれた、人間の魂の最終的な安らぎの地として町の姿だ。
9.11以降、「言葉」と「人生」について書くということ
★★★★★
暗鬱としたミステリー・ストーリーに、文学者達への敬愛(=ホーソン、ソロー、ポー、ジョイス等)と「言葉」を巡る苦悩と愛、ブルックリンへの思いが凝縮して込められた作品。こういったところは、いつものオースターらしい小説だと言えますね。言語コミュニケーションの限界を論理学で証明しようとしたヴィトゲンシュタインへの軽い言及なんかもされながら、9.11とブッシュ Jr.への批判なんかも忘れない。この情報量とネタの的確さは相変わらず大したもんだと思います。
ただ、この小説は他の彼の幾つかの作品とは読み応えが違うところもあります。例えば、「偶然の音楽」等のハードなカフカ的世界に比べてずっと救いがある点。家庭関係が壊れきった登場人物達(=多くは微妙に血が繋がってたりする)が奇妙なご近所・共同生活を行うところとか、壊れた恋愛や家庭のエピソードがこれでもかと語られつつも、一方で幾つかの心温まる恋愛エピソードがさりげなく挿入されたり。そして、ラストの「そこはかとない希望」が見えるところが他に僕がこれまで何冊か読んだ作品と違っています。
"One should never understimate the power of books."
この文だけ引用すると、なんか妙に肩に力が入ったポジティブさのようにも感じるかもしれませんが、この一節が、9.11の悲劇と重なってラストで語られることを鑑みると、この意識的なポジティブさはしみじみ来ました。翻訳不能な言葉遊びも冴えてるので、いつか日本語訳が出ても原書で読んでみることをオススメします。
心が温まる再生の物語
★★★★★
冒頭では、元保険セールスマンの何とも寂しい状況が淡々と語られる。
癌で健康を損ない、妻との家庭生活も破綻し、リタイアして今は仕事からも
身を引いている。でも、ふとしたきっかけから、長らく没交渉だったおいと
友人として再び付き合い始めると、新たな世界が広がってゆく。
静かに展開するストーリーの見事さもさることながら、登場人物の描写も
秀逸。また、登場人物たちは文学や政治まで、作中で様々なテーマについて
議論を展開するが、その内容も興味深い。
中でも、「Hotel Existence」のくだりは、幸せなせつなさで一杯になる。
魂の避難場所とでも言うべきか。後半、物語が大きく展開する契機とも
大きく関係している。
こうしたストーリー以外の部分も、この作品を読む醍醐味だと思う。
誰が読んでも楽しめるが、特に大人にお勧めしたい。心が温かくなる。
これがブルックリン!
★★★★★
彼の新作が出るのを待っていたので、書店で見つけた時は小躍りしてしまいました。そして読んで見て、期待通りの作品で物凄く嬉しかったです。会社を退職したちょっと悲しいやもめのオジサンの話で、細部が全部アメリカで日本とはいちいち違うんですけど、何故かいちいち共感出来ます。出て来る人物のことも皆嫌いになれなくて、何となく応援したくなって。いつも通りの程よい緊張感に溢れた透き通るようなオースターの文章のせいでもあるんだろうけど、それ以上に彼のその文章の積み重なったこのノベルには何かがあるのでしょう。ブルックリンの片隅できちんとバランスしている「読後感」。それこそがこの作品の価値だと思います。オースターを読んで見たいな、と思っている人にはちょうど良い導入作品になるかもしれません。お勧めします。
面白かった!
★★★★★
この作者の作品はOracle Nightに続いて2作目だが、こちらもとても面白かった。というよりは本作品の方が全体に明るい作品でより楽しめた。
物語は主人公の元保険外交員のNathanが妻と別れ、一人死に場所を求めてBrooklynに住み始めるところから始まる。当初はすることもないのでぶらぶらしているのだが、甥のTomとばったり出会うところから突然物語が動き出す。Tomの雇い主のHarry、妹のAurora、その娘のLucyと次々と登場人物が増えてきて、一つの出来事が次につながり物語は思いもよらぬ方向へと進んで行くことになる。
各々の人物の造形も見事で、辛い過去を持つ人が幸せをみつけたり、何の不自由もないと思われた人が突然不幸になったりと実に目まぐるしい展開となり、最後までまったく飽きることなく一気に読んだ。英語も実にわかりやすく、それほど長くないので、原書に挑戦したい人にもお勧めしたい作品だ。
「ムーン・パレス」並。
★★★★★
ムーン・パレス以来のオースターの悲喜劇。
オースターの文学的テーマは「偶然のリアリズム」とでも言うべきところにあるが、彼のテーマが最も幸福にストーリーと結びつくのは悲喜劇というスタイルのようだ。
前作「Oracle Night」は三重の物語構成にしろ、そのストーリー展開にしろ、かなりサスペンスじみていて、いただけなかった。
前々作「The Book of Illusion」も、さっぱりする終わり方であるものの、悲劇が物語の通奏低音となっていた。
今回の作品、「The Brooklyn Follies」は、そういう意味ですごく救われる、失われてしまっていた家族の回復の物語となっている。
たとえ2001年9月11日、午前中のブルックリンの風景で終わるこの小説の悲劇的な続きを、全ての読者が知っているにしても、読者はこの物語を「ムーン・パレス」と同じくらいに好きになるだろう。