死を読む
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稀代の名文家が「死」について書いた随筆・小説 12篇を集めたアンソロジーです。
収録した作家:
堀辰雄
久米正雄
三木清
西田幾多郎
渡辺温
原民喜
新渡戸稲造
村山籌子
芥川龍之介
坂口安吾
葛西善蔵
伊藤左千夫
我が子の死、妻の死、夫の死、親の死、友人の死、同僚の死、愛するペットの死、
いずれも避けては通れない「死」です。私たちは、そうした身近な死をきっかけに自分
の死について始めて考えることができるのかもしれません。
「おい、あっちへ行こう」とかなんとか言ったことだけは、記憶している。そのあとで、涙をふいて、眼をあいたら、僕の前に掃きだめがあった。なんでも、斎場とどこかの家との間らしい。掃きだめには、卵のからが三つ四つすててあった。
どうか僕の死んだことを、あんまり悲しまないで下さいね。或る詩人がかう言つてゐます。生きてゐるものと死んでゐるものとは、一錢銅貨の表と裏とのやうに、非常に遠く、しかも非常に近いのだ、と・
妻が生きていた日まで、この家はともかく、外の魔の姿からは遮られていた。妻のいなくなった今も、まだ外の世界がいきなりここへ侵入して来たのではなかった。だが、どこからか忍びよってくる魔の影は日毎に濃くなって行くようだった。
譬えていえば少女が男子に近くことを怖れる、その理由を訊せば知らない。この無意識に怖わいということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
どうしよう。神様、どうぞこの女を生き返らせて下さい。あなたのお力を信じてゐます。雨に打たれ、蚊にくわれ、私は毎晩、あなたのお力をひろめるために尽しました。
自分の祈りの間違つた処を神様が聞き入れて、父ばかりが死んで自分が生残るか、自分だけが死んで父が生き伸びはしないかと思ひ到つた。もし父ばかり死んだら自分はどうなるだらう。
ソクラテスやキリストの死が悲劇的であるように、いわゆる歴史的意識には悲劇的精神が属している。ヘーゲルやシェリングなどが悲劇的精神を歴史の本質の理解の根本においたということには重要な意義がある。ところが東洋にはそのような悲劇的精神がない。
死にし子顔よかりき、をんな子のためには親をさなくなりぬべしなど、古人もいったように、親の愛はまことに愚痴である、冷静に外より見たならば、たわいない愚痴と思われるであろう、しかし余は今度この人間の愚痴というものの中に、人情の味のあることを悟った。カントがいった如く、物には皆値段がある、独り人間は値段以上である
兵隊は人生の喜びのありかがやっと判ったような気がした。
「コンドル」という、これはつまらない映画であったが、然し、そのなかで、墜落事故で瀕死の飛行士が、これから死ぬから、みんな別室へ行ってくれ、死ぬところを見られたくないから、という場面があって、身につまされたことがあった。
三つ目のN駅は妻の村であった。窓から顔を出してみると、プラットホームの乗客の間に背丈の高い妻の父の羽織袴の姿が見え、紋付着た妻も、袴をつけた私の二人の娘たちも見えた。
格子戸をからりあけてかけ上がりざまに三児はわれ勝ちと父に何か告げんとするのである。
「お父さん金魚が死んだよ、水鉢の金魚が」