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十一面観音巡礼

価格: ¥3,150
カテゴリ: 単行本
ブランド: 新潮社
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日本のエスタブリッシュメントの深い深い教養 ★★★★★
 十一面観音への思いがあって、より知りたくてこの著書を手に取った。白洲正子という人については白洲次郎の妻ということ以外何も知らなかったが、本文を読み始めるとそのただならない見識の深さと文章の彫琢の確かさに一気に魅了されてしまった。

 巻頭に写真が五枚配され、本文は全十六章、聖林寺の十一面観音から始まって各地の十一面観音を見て回り、最後に聖林寺に戻るという道行きの中で十一面観音に関わる信仰の有様やかかわりに思いを広げていくという趣向で綴られ、巻末に同行した写真家の小川光三さんの「人と作品」、白洲正子年譜、著書目録を収録している。

 本文の内容についていえば、最近の自分の興味の方向にぴったり来る古代日本への好奇心が、著者の高い学識にあふれる故事の引用と思索によってだいぶ満たされていく感覚があった。十一面観音が天照大神の本地仏として観念されたこと、山岳信仰と結びついたこと、山岳と縁の深い水辺と樹木への信仰とも関わっていたことなどを豊富な例で証してくれるし、大和、近江、若狭、山城、伊勢、美濃、越前、信濃、熊野などの地域に関わる伝承や習俗についても、故事を引きながら読む者の脳裏にはっきりとした地域のありさまを思い浮かべさせてくれる。

 著者の文章は何度も言うが名文で、年譜を見ると、まさしく日本のエスタブリッシュメントの積み上げた教養のなせる業なのだなと思わずにはいられない。個人的に上流階級の人間は全く好きでないが、この人はすごいと言わざるを得ない。ある程度訓練を受けなければ理解・体得出来ない類のモノやコトはやはり各分野にあって、日本文化にもその種のモノやコトは少なくはない。著者がその理解・体得に心血を注いだというのはこの著書の行間にもにじみ出ていて、ほんの少し自分はそれに触れ始めただけだが、それでもこの女性の知の深みを垣間見れた気がする。

 彼女の著作全般にも興味をそそられた一冊。

見てまわる ★★★★☆
 1975年に新潮社から出た単行本の文庫化。
 白洲さんには、寺社仏閣を訪ね歩いた随筆が何冊かある。そのなかでも、十一面観音に焦点を絞って見て歩いたのが本書。
 奈良を中心に、京都、滋賀、岐阜などには多数の十一面観音が残っている。聖林寺、長谷寺のものなど優品も多い。
 そうした仏をひとつずつ訪ね、拝ませてもらう。そして優れたところ、駄目な点を述べ、当時の社会に思いを馳せ、十一面観音でつながれる世界観が浮かび上がってくる。
 独自の視点であり、美術史の定説とは違う点も少なくない。しかし、仏の実相へと切り込んでいく文章はさすが。
 写真も美しい。
十一面観音 発見! ★★★★★
観音菩薩とは? そういった疑問に答えてくれる1冊です。あらためて白洲正子さんの才能を痛感させられます。この本の冒頭に書かれているように、学者でも宗教家でもない自身が観音菩薩をどのように捉えるか、思ったところを綴るとされていますが、そこに観音様が存在するそはなぜか、人はなぜ観音様を信仰するのか、その真実を見てやろうという洞察力と感性に白洲正子さんの根本とも思える凄さを感じます。観音の深遠な世界へと誘う名著だと思います。
お薦めの古寺巡礼本 ★★★★★
 白洲さんには、いくつかの古寺巡礼のエッセイ集があるが、この本は十一面観音に絞った古寺巡礼エッセイ集です。
 以前「西国巡礼」というエッセイ集を読みましたが、各章が短い感じがして少し物足りなく思いました。
 しかし、この「十一面観音巡礼」は、目的の寺だけではなく、周辺の地域をしらみつぶしに歩き回っておられて、かなり堪能しました。
 有名な寺だけではなく、全然聞いたことのない寺もたくさん出てきますが、そんな寺にも深い歴史があり、由緒のある仏像が安置してあったりします。
 また、神仏習合の本当の意味も大変良くわかりました。
 今までいろいろな古寺巡礼の本を読みましたが、その中でも大変感銘を受けた本の一つです。
モノを見る眼を教えられる。 ★★★★★
この十一面観音巡礼は、仏教の教えからの考察ではなく、また古美術的な視点からだけの視点でもなく、寺社仏閣の縁起を調べ、歴史を遡りながら解釈を推し進めていく中に、十一面観音という菩薩がどのように日本人の意識の中に存在してきたかが解き明かされていく。

この本で展開される論拠と考察は白州正子という人が並外れた頭脳を持っていたことを如実に示している。それは源氏物語や枕草子などの古典の徹底した読み込みと、日本書紀などの史記研究で十分に練られ蓄積された圧倒的な知識があってのことだろう。だが研究書ではなく間違いなく随筆である。それは能や和歌などの芸能に加え、工芸や骨董などで鍛え上げられた確かな審美眼と、具体的なイメージに置き換えていく感性が相俟って論旨に輝きが与えられており、その際立つ独自性に目を見張る思いがする。人は目でモノを見るのではなく頭と心で解釈しながらモノを掴んでいる。こうした奥行きのある知性と優れた文章に触れることは、実際にモノを見る以上に確かな眼を鍛えることになるのだなと改めて驚かされる。