学習におけるリスクの役割
★★★★☆
インターネットの限界について指摘した書物であるが,インターネット完全否定の書物ではない。その証拠に,著者のドレイファス自身が自分の授業でインターネットを駆使している。結局のところ,結論は,その特性をよく理解した上で,適切に使用すべきであるというところにある。
筆者は,まず,昨今の楽観的なインターネット観を“インターネットの誇大宣伝”とする。第一章では,検索エンジンが,期待されるほどうまく機能していない,あるいは機能し得ないことを指摘している。第二章では,遠隔授業だと技能の中級レベルまでしかサポートできないことを指摘している。第三章では,インターネットによるテレプレゼンス(現前性)の限界を指摘している。第四章では,キルケゴールの新聞批判の応用で,インターネットで溢れ変える情報が,広がりばかりを促進し,個人の物事や人生に対するコミットメントを弱めるということを指摘している。
私が特に関心をもったのは第二章であり,この章のポイントは,学習における“リスク”であった。リスクこそが技能を高めるという指摘は,非常に考えさせられる。この言葉は,ニューメディア信奉者に言わせれば,学習における“面倒くささ”ということにもなろう。果たして,どのように考えるのが妥当なのだろうか。
これに対して次のような反論が考えられる。すなわち,誰かと関わりをもちながら,学習する限り,リスクはなくなり得ない。どんなに,面倒臭さが排除されようと,課題というものがあり,それが誰かに見られる限り,何らかのリスクがある。
ここでドレイファスは,“身体”を主張してくる。仮に,遠隔学習がもっと双方向的になろうと,個人に名前が与えられようと,身体が伴わない限り,リスクは成立しないというのである。だから,ドレイファス自身は自分の授業でインターネットを使用するものの,あくまでそれは補助であって,教室と学生が繋がり続けることを重視しているという。
ではなぜ身体がそれほど大切なのだろうか。それは肉体が傷つきやすいからであるという。この辺りに来ると,お世辞にも論理的であるとは言い難い。正直なところ,私は納得できない。しかし,“身体”が重要であるということは直観的に私も感じる。