いい本だとは思うが
★★★☆☆
懐疑論は、どんな思想を奉ずるにせよ、かかわる必要のないものである。その意味で根拠がないとはいえる。逆に私たちが自明の真理と思い込んでいるときの「自明さ」も、本当はたいして根拠がないということを、懐疑論は教えてくれる。
そんな、どっちに転んでも根拠がなさそうなことを、著者は執拗かつ精緻に展開してみせる。面白い。しかし執拗過ぎて疲れる。半分程度でよかったかも。ただしこのくどさのおかげで、中で取り上げられている幾人かの著書を直接知らずとも十分わかるようにはなっている。
私たちは何らかの外界の情報をたしかに得ているわけだし、ある程度それでやっていけているのだから、個人的には懐疑論はどこか間違っていると思う。もちろんそんなあやふやな信念こそが懐疑論の標的ではある。しかしこの本を読むかぎりでは、そこで懐疑論を反駁しようとこころみることこそが知的な遊戯になってしまいかねない、と恐れる。むずかしい。
深みにはまる
★★★★★
デカルトは暖炉のそばに腰掛けて紙を一枚手にしているときに考える。いま私は、暖炉のそばに腰掛けて紙を一枚手にしているということを知っている(以下、「知識」と同義)のか?もし夢を見ているのであれば、私はこのことを知らないことになる。いま私が夢を見ていないことは証明できない。つまり私がいま暖炉のそばに腰掛けて紙を一枚手にしている、ということを私は知らない。そればかりかこの世に現れるどのようなことであれ、私は決して知ることはない(私は世界に対する知識を全く持っていない)。
この懐疑論に対して現代の多くの哲学者は、そんなことはとっくに解決しているのだからそんなばかげた議論に関わる必要はない、と考えているようだ。著者バリー・ストラウドは、本当に懐疑論に対する結論は出ているのか?と問い直す。そしてこれまでに出てきた懐疑論に対する反論を多く取り上げ、それらはどれも懐疑論が持つ疑問に対して十分に答えていない、と論述する。とはいえストラウド自身、だから哲学的懐疑論は正しいのだ、とは言っていない。この本は、まだこの問題については考え続ける必要があるんじゃないの?といっているだけなのだ。
難しく、はっきり言って理解できたとはとうてい言い切れない。しかし具体例がたくさん出てきて、言葉遣いも易しく、面白い。