みどころはやはり三章。敵対性の理論など、彼ら独自の非本質主義的社会研究のための方法論が次々現れる(逆に一章はマルクス主義の歴史がある程度わかってないとしんどいから後回しも一つの手かも)。
「あるもの」と「そうでないもの」の関係(矛盾)でも、「われわれ」と「やつら」の関係(単純な対立)でもなく、社会的利害の中で何者かとぶつかりつつも、その衝突のなかで己のアイデンティティの一貫性が崩れる関係(敵対性)という図式は、階級主体を教条化し本質化した党派主義的マルクス主義運動を強く批判する、新たな社会ヴィジョンである。
ただ、彼らの非本質主義、アイデンティティの非固定化が行き過ぎて、逆に社会を織りなすさまざまな要素が均質化されている気がする。ここらへんが、ポストモダニズム的な知の戯れの傾向にもつながっていくところなのだろう。彼らの議論は一つの大きなたたき台ではあるが、たたき直されるべきところはなお多いと思う。
しかしながら、現実の社会において、彼らの言う「敵対性」は未だ存在しえていないのではなかろうか。あるのは「われわれ」と「われわれでないもの」の関係と、「われわれ」と「やつら」の関係のみである。