歴史を「共有」することの難しさ
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歴史はその時代の制約により解釈をいかようにも歪曲することができる。
例えば終戦直後の西独でナチズムを「ヒトラー」の特異性のみに負わせたことは、
反共産主義の立場から西側「民主主義」を徹底させるための政治的措置であり、
逆に東独が戦犯ドイツの継承国となった西独に「ナチズム」責任のすべて負わせたことは、
反ファシズムを錦の御旗とする東側「共産主義」にとっては必然的な政策であった。
本書は両独のその後を追いつつも主として統一直後までの西独歴史教育を中心に展開し、
いかに「歴史認識」を以下のように転換させてきたかを丁寧に解説している。
1) ナチズム史の教育そのものに対する認識
--> 占領国政策による「政治的義務」から主体的な「国家責務」へ
2) 戦争犯罪の主体に対する認識
--> 「ひとにぎりのナチ」から「一般ドイツ人」へ
3) 戦時迫害に対する認識
--> 「反ユダヤ主義」の固定図式からジプシーや障害者への迫害をも含めた「排外主義」へ
4) イスラエル、ポーランドとの教科書対話
--> 「被抑圧者」としての記述から「共生者」としての記述へ
「歴史」が書き手の数だけ生まれてしまう現実の中で、
国内外を問わぬ共有認識を醸成することがいかに困難かを物語っているが、
いまだ途上にありつつもドイツの政策はひとつの模範例として学べるのではないだろうか。