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障害受容再考―「障害受容」から「障害との自由」へ

価格: ¥1,890
カテゴリ: 単行本
ブランド: 三輪書店
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当事者のから見た「障害受容」について ★★☆☆☆
著者田島氏の論を待たずとも、すでに一時流行った「障害受容」論は有害な概念として批判されてきた。
「障害受容」という名の下に、問題の解決を社会ではなく、障害者個人に向けた点を南雲氏らが批判した。
そして、「障害受容」など社会が変われば、障害者個人が果たさなくても良いのではないか、
そういう風潮になっている。
死語だとコメントしている方もいるくらいである。
田島氏の批判的視点や切り口はおもしろいのだが、どうも文章表現が難解で不適切で説明が不十分な印象を持った。
読んでいて、途中で理解しようとする努力が何度もくじかれてしまう。
「障害との自由」が田島氏の最大のオリジナルな概念であるようだが、そもそも日本語として理解に苦しむ表現である。

当事者である私個人から見て、障害をどう受け止めるか、というのは重要なテーマである。
例え、理想的な、偏見や差別もない社会や友人、家族がいたとしても、
障害者自身が障害者となったことで、苦しんでいるのであれば
(Identity Crisisという内面的危機という意味での苦しみ)は避けられまい。
それはケアされ、新たな自己を再生し、障害を抱えながらも明るく生きていける道を探し続けるであろうし、
医療関係者や家族や友人や社会はそれを支援するべきである。
当事者の一人としては、治療者の都合の良い逃げ口上としての「障害受容」という言葉を使って欲しくはないが、
上田氏の言う主観的障害の中核をなす「障害受容」は忌避せず向き合って貰いたいと願う。
障害者となり、元には戻れないばかりか、新しい生活や自己の可能性を見いだせず、
絶望して人生を諦めている人や、死を選ぶ人たちはまさに自らの「障害を受容」出来なかったのかもしれないのだから。
一度は「○○さんは障害を受容していない」と言われて医療者から切り捨てられ、
今度はその言葉は不適切だと言われて、再び、一番、こころの痛いところを無視される。
障害者全員が同じ意見だとは思いませんが。
自由であるはずの障害観 ★★★★★
 「障害受容」という言葉は、レビューを書いている方の中には既に死語になっている方もいるようですが、私は普段よく使っています。本書のように十分な吟味や定義付けは出来ていませんが、もう少し受容出来たら次の一歩が踏み出せるのになあ、といった感じで使っていることが多いです。本書を読んで、そこまで極端に排除しているわけでもないし、受け入れていないことを悪しとしているわけではない、押しつけているわけでもない、と最初はやや否定的な感想を持ちました。読み進めるうちに、自由であるはずの障害観を自由にさせることが出来ていないと認識させられました。と同時にやはり“押しつけている”ことになってしまっているのかも知れない、と考え直させられました。障害者に対して、様々な手段を通して、様々な選択肢を患者に与えているつもりでしたが、自由は与えてなかったかも知れない、と反省しております。
 世の中全般を見ても、やはり「普通」と違うものは悪いものとされ、悪いものは排除され、なぜそれは「普通」と違うのか?「普通」って何?などは議論されない。未熟な集団であればあるほど、スケープゴートしていく。「共存」とは名ばかりで、様々な制度やシステムが作られているが、形ばかりで中身が伴わないし、やはりそこには「自由」はない。それぞれの違い・個性をもっと理解し合って、それぞれが「自由」に自分で進むべき道を選択できて、それらも含めて「共存」していくことはそんなに難しいことなのだろうか?と日々疑問に思っています。きっと、具体的な策を考えたりすると、単なる理想論であり、きれいごとで終わってしまうのかも知れませんが…。
 本書は理論的な説明をする中で、難しい言葉が多く並んでいて、他のサイトでは「読みづらい」と言われているようですが、普段の日常と照らし合わせて読んでみると、この現象はその言葉で表現できるんだなあと、とても勉強になります。私も日常の物事について、この著者のように理論的に説明してみたいし、他の共感を得たいと思っています。哲学的に社会学的にレビューされている方々のようなコメントは出来ませんが、「再考」し、これからも向き合っていくきっかけとして大変良い本だと思いました。
再考への複雑な想い ★★★★☆
・本書の紹介が専門誌の広告に載っていたのをみてある意味驚いた。
正面からこの問題を再び取り上げることは超難題と思っていたからである。
私の印象では、リハ業界では障害受容という用語はすでに死語となっていて
最近は議論さえ行われていない。また、口にしている同業者に出会うと、この
用語を巡って行われてきた議論を知らずに使うことは害ですらあるのでは、と
感じていた。辛うじて議論はリハ領域でなく、社会学で細々と行われているよう
だが、大半は現場を知らない机上の言説が多いように思う。
・そう、今時「この患者さんは受容ができていない」なんて言う援助職は無知
をさらしているようなものだ。また、援助することの意味を考えたことがないの
では、と思ってしまう。
・著者は前半でこの用語を巡る議論の歴史を丁寧に紹介し、後半では限られた場で
はあるがフィールドワークを行った結果から考察を展開している。特にリハ職養成
学校では障害受容についてきちんと教えていないようなので、その意義は高いと
思う。ただし、著者が暫定的にたどり着いた「障害との自由」の内容は不明瞭の
まま終わっていると思う。
・クライエント中心のリハが一時期よく言われていたが、これもカナダの社会精度
に密着したものであり、日本に持って来ても実のない言説と思える。
しかし、行政の診療報酬制度にだけ左右されて、特に民間病院等の売り上げ至上主義
の下で支援の意味や専門職の寄るべき哲学がない状況は本当にマズイと思う。その
意味で原点に立つ試みの1つとして読んだ。
著者へのお礼 ★★★★★
まず、著者に感謝を表したい。これまでのいわゆる高名な先人の言説に、クライエントの立場にたって率直に/丁寧に疑問を呈し、新しい概念を紹介された。この概念に救われるクライエントは恐らく数多くいるだろう。ただ、臨床(実践)の現場においてクライエントと接する「専門家」の中には、これまでの教育等より「障害受容のモデル」を静的な知識として信じて疑わない方も少なくないかも知れない。大きく譲って、そのモデルが「スタンダード」だとしても、そのプロセスを直線的(螺旋的であっても)に前へ/上へ進めるクライエントが果たしてどのくらいいるだろうか? 臨床(現場)に携わっている「専門家」であれば、その経験の差こそあれ、容易に想像できるのではあるまいか。クライエントの1人として、障害受容の呪縛から開放してくれるきっかけを与えてくれた著者にお礼を申し上げるとともに、さらなる鋭著に期待したい。
「リハビリテーションの現代史」からみる「障害受容」という語りへの違和感 ★★★★★
 この社会で起こっている出来事や規範を相対化することが社会学のなりわいの1つであるとすれば、この本はりっぱに社会学の本である。「りっぱに」と述べたのは、予想するにたぶん書店では医療関係、リハビリ関係の棚に並ぶだろうからだ。そして、「間違えて」手に取った人も、「間違えて」読んでしまってよい、そんな本である。
 それでは、この本は社会のなにを相対化しようとしているのか。それは言うまでもなく、「(ひとりで)できるということ/できるようになること(の価値)」の相対化である。そのような主題は立岩真也の私的所有論に通ずるものがある。著者は、そのような価値、「障害を受容する」という言葉の使われ方に対する違和感を、作業療法士という「現場」において持ち続けてきたのである。
 その違和感とは何か。ひとことで言えば、その言葉が「障害をもつ者の存在」という価値をないがしろにしている、と言うのである。言い換えれば、障害者に対してリハビリを強要し、それでもなお残る障害を「受容」することを社会の側が要請することは、障害者の人としての価値に否定的なまなざしを与えるということである。
 著者は、そのことを説得的に示すために、二つの手法によって分析する。一つ目は、日本のリハビリテーション業界において「障害受容」が歴史的にどのように語られてきたのかを文献によって明らかにすることである。いまひとつは、双方の当事者――障害をもつ者とセラピスト――の語りから、「障害受容」に関する違和感を抽出することである。とりわけ後者は、実際に現場に身を置いた著者であるからこそ、完成度の高いライフヒストリー、聞き取り調査が行われたのだろうと推測する。
 最後に、著者が「障害との自由」あるいは「他なるもの」として描きだそうとした発想は、現代における哲学的思考とも連なるものである。私見だが、著者が苦心して描きだそうとしているもの、それは決して肯定的な言語によっては表出できないような〈何者か〉としか言いようのないものではなかろうか。私が主体的に「他なるもの」を発見するというのではなく、この世界のほうから私に「他なるもの」が(否が応でも)到来する。そのように理解すれば、「他なるもの」とはいまだかつて私の理解の範疇にはないもの、すなわち肯定的に描くことが不可能であるような〈何者か〉である、といえるであろう。この世界はけっして肯定的な命題だけによっては埋め尽くされない。しかしながら、その埋め尽くされ得ない残余、つまり肯定的な表現では「語り得ない」〈何者か〉は、まさにこの本が実行しているように、「示され得る」のではなかろうか。
 著者は、現在の形のリハビリテーション(に関する語り)を批判しているが、だからと言ってそれをやめてしまえとは思っていない。「(ひとりで)できるということ/できるようになること(の価値)」から解放されたリハビリテーションの存在可能性を著者は信じている。私もまたそう信じている。その具体的な像は示されていないが、著者の今後も続くであろう真摯な研究に期待したい。それはまた、「開発」や「発達」などが、西洋帝国主義や発達保障論とは別の形、別の語り方で存続可能だし、そのように意味を変更しなければならないと思っている私とも共振するものがあったことを付け加えておく。