インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

1968年 (ちくま新書)

価格: ¥924
カテゴリ: 新書
ブランド: 筑摩書房
Amazon.co.jpで確認
【セブン-イレブンで24時間受取りOK・送料0円!】 著者/訳者名:秀実/著 出版社名:筑摩書房 シリーズ名:ちくま新書 623 発行年月:2006年10月 関連キーワード:センキユウヒヤクロクジユウハチネン チクマ シンシヨ 623 せんきゆうひやくろくじゆうはちねん ちくま しんしよ 623、 チクマ シヨボウ チクマシヨボウ 4604 ちくま しよぼう ちくましよぼう 4604、 チクマ シヨボウ チクマシヨボウ 4604 ちくま しよぼう ちくましよぼう 4604 先進国に同時多発的に起こった多様な社会運動は、日本社会を混乱の渦に巻き込んだ。その結果生まれたウーマン・リブ(→フェミニズム→男女共同参画)、核家族化(=儒教道徳の残滓の一掃)、若者のモラトリアム化(→「自分さがし」という迷路)、地方の喪失(=郊外の出現)、市民の誕生と崩壊、「在日」との遭遇などの現象は相互に関連しながら、現代社会の大きな流れを形作っている。前史としての“60年安保”から、ベ平連や全共闘運動を経て三
これはひどい ★☆☆☆☆
 これは天下の悪文集である。著者と私は同じ年齢なのであまりひどいことは言いたくないのだが・・・
 例えば、「ナルシシズム=ナショナリズム」なる等式?が頻出するが、だれがこんな等式認めますか?
 これはほんの一例だが、意味不明の文章が多すぎる。で結局何が書いてあるのか、さっぱり分かりません。

 59頁に岩田弘の引用があって、文末が「・・ことは明白であろう。」となっているが、またこの文章も
解読不能(これは著者の責任ではないが)で笑わせる。

 ということで私は第一章で読むのを断念しました。
 最近こういった編集者の不在としか思えない、ダメな著作が大変多いのは困ったことです。
「戦後民主主義」と「新左翼」 ★★★☆☆
新左翼の理念が現在、世界中で受け入れられている、という指摘は確かにその通りだと思います(受動革命)。ただ、それは西部邁氏が言うところの「左翼国家アメリカ」の絶対的な影響力によるところが大きいのではないでしょうか。(新左翼とネオコンの共通点を考えれば分かりやすいと思います。トロツキスト、世界革命、冒険主義、例外主義など)

それに加えて、すが氏は左翼思想を誤解しているのではないでしょうか。フランス革命やアメリカ独立戦争を考えれば分かるとおり「左翼思想(民主主義、共産主義を含めた近代主義、啓蒙思想)」は、もともと暴力的で排他的な革命思想であり、新左翼が愛国的で自己愛が強く、排他的で暴力的なのは別に問題ないでしょう。むしろ左翼なら当然のことだと思います。

つまり、この本は肯定すべきことを肯定せず、否定すべきことを否定しない、変な本といえると思います。(もちろん、すが氏が左翼という前提に立てばですが)
左翼のメカニズム ★★★★☆
本書は「1968年」を、とりわけ七月七日におきた華青闘告発を分岐点に解き明かす。

この本を読むと、虐げられた者が自己を革命の「主体」として措定する身振りそのものが同時に、その他の虐げられた人、マイノリティー(女、在日、障害者、部落)を主体ではない他者として措定することと表裏一体になっていることがわかってくる。既存の左翼ではないという自意識があった新左翼がいつのまにか築いていた欺瞞を暴いたこの華青闘告発とは、そういったものの象徴なのではないだろうか。
僕らが現状に不満を持ったとき、その不満の内容は隣の人のもつそれと必ずしも一致しない。むしろ、その人と僕の不満や要求というのは、激しく対立することだってありうる。現体制との抗争よりも何よりも、左翼内部での激烈な暴力・内ゲバが蔓延し、あげく死者まで出してしまったというのには、そのようなメカニズムがあるように思えてならない。
それは1968年というきわめて限定的な時代にとどまらない、普遍的なメカニズムだ。

今や消費者学生主義が蔓延する大学では、PC(ポリティカルコレクト)の名の下、「フェミニズム」も「ジェンダー」も「環境問題」も「部落問題」も、建前上は「早急に解決されるべき問題」として、払った授業料に見合った授業の、体のよい「ネタ」として取り上げられる。

教室の窓の外では、ジチカイなる人々が未だに拡声器で戦争がどうのこうの叫んでいる。僕の通うY浜K立大学はかつて、学生運動の拠点であったという話は前にも聞いたことがある。行き交う学生には半ば空気のようにシカトされながらも彼らは演説を止めない。

彼らは本当に何かを変えようとしているのだろうか?
そして、本当にそんなことで何かが変わると信じているのだろうか?

いや、それは愚問なのだろう。もちろん彼らは信じている。本書のいうとおり、時代は「歴史から虚構」へと移った。しからば、ジチカイに励む彼らの変革しようともくろむ世界だって、立派な虚構のことなのかもしれない。
華青闘告発の行方 ★★★★☆
 1949年生まれ=68年世代の、「日本読書新聞」編集長を務めた文芸評論家が、1968年の課題は「反革命的」に実現したため、我々は未だに「68年」という枠組の中で生きざるを得ないという、懐古趣味的でない見地から、2006年に刊行した本。1968年革命は、スターリン批判による左翼の分裂、豊かさの中での規律訓練体制の動揺、総動員体制としての戦後民主主義体制への批判の高揚を背景として、資本主義の力に依拠することで遂行された、豊かさの中の革命であった。それは第三世界革命に煽られるように、世界的なヴェトナム反戦運動と連動して闘われた。著者がここで、山口健二や共労党に注目して、べ平連をソ連派に支えられた運動と見なしていることは、断罪の意味ではなく政治運動の成否というものを考える上で、重要である。しかし70年7・7華青闘告発は、革命を成就しても解決できない問題として、新左翼自体の差別意識・ナルシシズムを明るみに出すことになり、新左翼運動を多様なマイノリティー運動へとシフトさせた。それは結果として、運動の主体をめぐる迷走や、既存のナショナルな正史への疑義(左右入り乱れ、実践と結びついた裏の日本史運動の分立)をも帰結し、大きな物語の解体につながった。また、7・7によって自己の運動の再検討を迫られた諸党派によって、真剣な革命が模索される中で、内ゲバも生じたと著者は言う。その後、1968年の成果はグローバル資本主義体制の枠内に回収されていき、シニシズムが支配的になったが、それは跳べるはずだが跳べない千尋の谷のようなものだと著者は言う。本書には抽象的な記述が多く、論理を追いにくい部分も多いが、活動家たちの人脈や影響関係が詳しく追究されている点、定説への果敢な挑戦がなされている点で、刺激的な本である。

全共闘世代の人の言う「主体」とは ★★★★★
感想は2点ある。
まず第一点:団塊の世代の人達が言う「主体」というコトバの意味がこの本を読んでよくわかった。「主体性のない態度」などの日常用語にもこれが現れているのだなぁと思って納得したのだが、例えば、他者が「私」と「私の言動」に対して批判として何かを「告発」する。そして、その告発に対して「私」が徹底的に「自己批判」して自分の言動を悔い改めて新たな実践をする。それを繰り返す時の「私」のことを「主体」というのだ。だから、「私」が「主体」となるためには「私」には「私の言動」を告発してくれる他者が必要だということだ。つまり、「私」と「他者」が「何かの共通の目標」に向かって行動していて、その「他者」が「私のいけない部分、誤解している部分」を「親切に容赦なく指摘してくれる」ということが前提になって初めて「私」は「主体」として行動し続ける必要条件が設定されるということだ。そして、その告発に対して否認せずに「徹底的に自己批判する」ことが十分条件ということだ。
そうか、彼等世代の言う主体性とはそういうことだったんだ。ということがよくわかった。
ということは、現代のように価値観がバラバラの時代に「主体的に生きる」というのは並大抵のことではないだろうことがはっきりとする。だって皆が別々の方向性を持つことが主体性だと信じているのが高度経済成長以降の我々の世代だから。わたし達が十分自分自身のユニークさを自覚して主体的だと信じているものがわたし達のオジさん世代の人には没主体的と見えて当然なんだな、ということである。
著者が主張するには、学生運動家がマイノリティーの立場の人から告発を受けたときに彼等にとっての主体的なあり方に決定的な変化が起きた。それが1968年であるという。だからその意味では1968年に「主体は死んだ」のかもしれない。
第二点:この本のおかげで戦後の思想史の概観がわかった。「あーそういうことだったんだ」とか「あーそう読むんだ」ということが理解できた。充実した読後感が持てた。