インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

アダルトビデオ革命史 (幻冬舎新書)

価格: ¥861
カテゴリ: 新書
ブランド: 幻冬舎
Amazon.co.jpで確認
産業構造とによりドラスティックに流れの変わるAV史 ★★★★☆
近年、アイドル系AV女優が、一般的なテレビバラエティに登場する機会が増えている。
アイドル顔負けのルックスの美女たちがバラエティ番組で拝めるということに、われわれ
若い世代は隔世の感を抱きそうになる。だがAV女優がテレビ界に進出する潮流はなに
も今回が初めてではない。歴史は繰り返されるものなのだ。そのことを『アダルトビデオ
革命史』を教えてくれる。本書はアダルトビデオ創成期から見るだけでなく論じる側とし
ても関わってきた評者による、その誕生から今までの興亡を追ったリポートだ。

アダルトビデオは最初から「アダルトビデオ」であったわけではない。そのころ日本にはす
でにポルノメディアは存在し、そこからAVというのが形作られていくのには、ビデオという
機器の発達が多分に影響を持っているのだ。例えばもはやお馴染みの「ハメ撮り」は、片
手で持てるハンディカムがあってこそ可能なのだ。ハメ撮りという需要があったからハンディ
カムという供給があったのではない。決して順序は逆ではないのだ。

また、80年代から90年代にかけての村西とおるの多大なる存在感にもあらためて気づか
される。ダイヤモンド企画と村西監督が愚直なまでに貫き通した「本番」というポリシーが、
結果的に企業の首を絞めたのだが、そこには疑似本番でお茶を濁す他レーベル、さらに
官憲の規制との攻防があったのだ。その末にダイヤモンド企画は倒れ、村西もいったんは
表舞台から去ることになるのだが、そこは涙なしには読めない。

あくまで作り手側の論理で負った歴史であるが、2年をかけたという読みごたえある力作だ。
知識人の注目をあつめた一時期の尖鋭性はうすれ、今のAV業界はわれわれ怠惰な消費
者の「抜ければいい」という冒険心を欠いた打算的消費におもねり、金太郎飴のように同じ
流れの作品を量産している。この本はそんな在りし日のめちゃくちゃをやっていたAVへの
憧憬を、ほのかに含んでいる。
本書を手にした興味の発端にこたえてくれるだけの記述がなかった。 ★★★★☆
 先週、縁があってAV女優たちが多数出演する「脱がない」舞台劇を都内で見る機会がありました。彼女たちが女としてどう生きて行くのか、その意思を吐露する芝居の内容に触発されたところで、本書を手にすることになりました。

 本書の著者は1962年生まれ。80年代からAV業界の動向を論評してきたフリーライターとのこと。

 私は社会人一年生時代の頃だった80年代のAV状況は、様々な男性誌やテレビ番組で拾った情報で大体は知っているつもりでしたが、言われてみればなるほどと思わせるいつくもの歴史的事件が綴られていました。
 民生用ビデオカメラの開発が進んだことによってそれ以前のポルノ映画と決定的に違う手軽さ、経済性、演出法をもって歩み始めたAVが、どういう形で今日に至っているのか。
 ビニ本とAV発達の関係や、当局とのわいせつをめぐる戦いのあれこれなど、新書という紙幅の限られた書籍でありながら、丹念かつ精緻に歴史を追った興味深い一冊です。

 気になったのは、AV女優たちの視点で書かれた記述がほとんどない点です。
 監督やプロデューサーといった業界を動かしてきた人々がどう仕掛けていった末に今日のAVがあるのかについては、本書を読んで理解できた気はします。
 しかし、時代時代を画していったAV女優たちの思いについてはわずかに過去記事からの引用がある程度。彼女たちは仕掛け人たちに仕掛けられたツールにすぎなかったのか、それとも自分たちも時代を読みとって果敢に仕掛けていった口なのか。
 そもそもAVに出演するに至る心の葛藤はどんなものだったのか。疑似本番が当たり前だった80年代から、本番が当然となった90年代の変化に、女優たちにどんな心の変化があったのか。そうした点についての深く掘り下げた回答は見当たらないのです。

 冒頭に記した舞台から喚起された私の興味にこたえてくれる続編を著者に期待したいところです。
意外に深い内容です。 ★★★★★
幻冬舎ということもあり、期待せずに購入したが、意外に読み応えがあった。映像機器の発達史(技術史)、エロメディア(形式)のはやりすたり、「ワイセツ」をめぐる政治状況、村西とおる等の革新的プレーヤーの登場という複数の偶発的要素の絡み合いの中で、必然とはいえない文化現象として、現在のAV隆盛があるということが示されている。よく調べられており、執筆の視角は研究者のそれに近い。また、国際的に見た場合の日本のAVの位置にも触れられている。現代史の叙述としても成立している。「アダルトビデオとは?」という問いの奥深さや、「アダルトビデオなんてどうでもいい一風俗現象」といってすますことは出来ないことがよくわかる。
AV女優はゼンキョートー世代のファンタジーに供される生贄なんだと私は思う ★★★★☆
 本書の第4章までは、同じ著者の「『生撮り』の誕生」(『アダルトメディア・ランダムノート』所収)を発展させた内容。特に小路谷秀樹と「イメージフォーラム」との関わり(p61)や、篠山紀信「激写」シリーズとの符合(p82)の指摘は興味深い。これはAVが、『テレビだョ!全員集合』が示した田原総一朗的なTVドキュメンタリーから「アイドル」生成への展開の一環をなすことを裏付けている、と私には思える。
 藤木は『醜聞聖書』で、アイドルを「いわれなき罪を背負い、それでもなお自ら進んで十字架に磔にされる聖者」と位置づけるが、私の考えではアイドルとは聖者というより、ただの生贄でしかない。しかし、その生贄は何に供されるのか?
 私たちは、スターの不可能性を反復強迫的に確認し、かつて自分がスターの前に跪拝した事実を抑圧隠蔽すべくアイドルを召喚し、アイドルがスターではなく「生身の人間」でしかないことを繰り返し暴く。つまりアイドルとは、神の不在証明に捧げられる生贄なのだ。AVにおける「生撮り」とは、聖少女がしょせんは動物としての欲望を抱え、その欲望の前に敗退していく姿のドキュメント(ファンタジー)だと言える。潔癖症の患者が手洗いをやめられないように、AVユーザーたちは「涜聖の反復強迫」に侵されていたのではないか?
 私は、創成期のAV界に全共闘崩れのような人材がチラホラ見えることと、この暗く古臭いファンタジーに根ざした「涜聖の反復強迫」とに関連性があるのではないかと疑っている。
 ただ、このような暗く古風な欲望は、聖少女のままに人前で易々と性行為を行うようなAV女優たちの登場で無効化されていくのだろう。
技術開発と規制による発展 ★★★★☆
 80年代よりAV業界の動向を追い続けた1962年生まれのフリーライターが、2009年に刊行した新書初のAV論。本書におけるAVとは、男女の性行為の映像記録(ポルノ)の内、基本的にビデオカメラで撮影され、ビデオテープ、DVD、インターネット配信の形での販売、レンタルを第一目的にした作品群で、かつ日本国内で合法的に販売できるよう試行錯誤された商品(表ビデオ)を指す(ただし未だに合法・違法の線引きは曖昧)。1960年代における性表現の自由化、テレビと映画の競合、日本のメーカーによるVTR開発の進展等を背景に、70年代にはポルノ映画のビデオ版が開発されているが、ビデオ機材の小型軽量化によって初めて、AVは1981年に発明された(裏ビデオ第一号は1979年)。ビデオ撮りの発達は、映像にリアリティを与え、非専門職による作品製作を容易にするため、AV製作に適していた。またビニ本による素人美少女モデルの開拓と、裏本のハードコア路線は、AV女優の大量デビューを帰結した。80年代にはビデオレンタル店の急増と新風営法の施行で業界が動揺する中、村西とおるが淫乱女優を起用して本番AVを量産したが、やがて擬似本番女優飯島愛がTVで人気を得、本番にこだわる村西を駆逐した。こうしてAVが社会的認知を受ける一方で、90年前後の警察によるAV摘発から自治体による有害図書指定への移行と、女性誌のセックス特集は、AV規制を緩和させる結果となった。この時期AV市場もレンタル優位からセルビデオ優位へと移行し、審査機関も乱立した。他方、不況で倒産したメーカーから無修整素材の裏流出が相次ぎ、セルビデオメーカーが修整の薄さを競い摘発を受ける中、米国からの逆輸入ビデオやインターネット上の無修整動画配信が普及しており、著者はこうした現状を踏まえて、修整に関する議論はもうやめるべきだと提言する。