近代科学の始原がよくわかる
★★★★☆
1997年の版で読みましたが、
科学的視点の位置が19世紀にいかに形成されたかが、
有名な近代自然科学の実験を素材にして語られいて、
当時、社会学的なことに関心をもっていたので
現代的知識の形成を具体的に理解するのに
とても役にたちました。
旧版に感銘を受けた者として、復刊を引き受けた以文社の心意気を買う
★★★★★
本書は1997年に、十月社「近代を測量する」シリーズの1冊として刊行された同名翻訳書を復刊したもの。最初の邦訳出版当時、特に視覚芸術論の方面に関心を持つ人々の間で評判を呼び、多くの新聞・雑誌に好意的な書評が掲載されたと記憶している(吉見俊哉が、朝日で97年末の「今年の3冊」に選んでいたと思う)。私もそのシャープな議論に感銘を受けた1人だが、残念なことに版元の倒産で入手しにくくなっていた。この以文社版は旧版と邦訳タイトル・サブタイトル・訳者などが同じであることはもちろん、訳者による長尺の解説文まで再録されている。翻訳の水準はきわめて高い。
装丁は、旧版では巨大なガラス板が砕け散った室内に、向かって左手から淡い光の差し込むインスタレーション作品の青みを帯びた写真が表紙に用いられており、内容とも呼応するようで興味深かったが、これは新装となっている。
以文社が復刊を引き受けたのは、もちろん本書が優れた内容を備え、古典としての地位を保って商売として成り立つという見通しあってのことだろう。また、前後して同じ著者による『知覚の宙吊り』邦訳(平凡社)が刊行されたのに合わせて、相乗効果を見込んだ面もあるだろう。しかし、それにしても旧版が一定部数出回った上での出版には大きなリスクがあったはずで、そこに以文社の心意気のようなものを感じた。
濃密です
★★★★★
身体の境界が変容したことにより近代の文化、技術はその新しい観察者という存在を生み出した。その観察者の視点で近代以降の文化的所産がつくられてきたという主張。フーコーのいう19世紀以降人類の芸術は進歩していない。という、その歴史、芸術的断絶を背景に濃密な議論が結実していると思います。
しかし、この本にあることは今や常識であり、今、この本が読まれるべき価値はさらなる歴史的断絶を経験しなければならない今の人たちの過去として読まれるべきだとおもいました。
歴史における飛躍は、知識として知っておく必要が十分にあるとおもいました。
語られた視覚の歴史(近代まで)
★★★★☆
近代がいかに視覚をもとにした体制なのかという歴史記述。フーコー的系譜学ですが、はるかに明瞭です。映画へと続く視覚装置の、連続よりも不連続に意味を見出し、そこに「観察者」の変容を跡づけています。17、18世紀から19世紀になる時点で、視覚は主観的、幻像的になると同時に、より権力にさらされて主体化される「観察者」となってゆく。第4章のステレオスコープの記述など、感動的です。ヒッチコックの『ダイヤルMを回せ』を思い出すのは、恣意的すぎるでしょうか?とにかく、イメージに興味がある人必読の書!