世界のリーダーを育てる 私立学校維新: 全寮制の学校からはじめる 教育改革維新
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早いもので、教職に奉職してから30年を越える年月が流れました。
あるときは高い評価をいただいたり、
あるときは鼻つまみ者として追いやられたりという、
私ほど極端な教員生活を送った教師も少ないことと思います。
振り返ると、
なぜ教師になったのか、あるいはなれたのか、
導かれるままに教職の道を歩んできたと感じます。
周りの先生方を見渡すと、
その多くが、私とは違い学生時代に優等生だった方々ではないでしょうか。
大きな理想を抱くものの安定した人生を望む場合、
教師という職を志すことが多いのかもしれません。
加えて、その多くが、教師以外の職を経験したことがない方々です。
私も含めて、世間知らずの集団と言えるでしょう。
そんな人たちが集まる学校現場が、
いま、思考停止の危機に瀕しています。
なぜ、思考停止状態に陥っているのかというと、
二つほど、大きな要因があると考えています。
一つは、旧来から続く枠組みや仕組みに限界があること、
もう一つは、私も含めて指導者としてのスキルが未熟であることです。
未熟とは、経験不足と言い換えても良いかもしれません。
学校にはさまざまな生徒が入学します。
従来の日本社会や教育現場では、決まった型に生徒をはめ込むことが、
優れた学校教育だと短絡的に考えられてきたように感じます。
しかし、人々の価値観が多様化する今の時代において、
旧来の教育は限界に達しています。
画一的な考え方では、対応しきれないところまできているのです。
本来であれば、学校と保護者が互いの価値観を尊重し合い、
生徒の成長を促す教育活動を協力して行うべきなのですが、
残念ながらそれが難しい状況が頻発しています。
学校や教師の思考が停止し、多様性に対応できていないのです。
私学自体のあり方も崩れてきています。
私学の理想的なあり方は、
建学の精神に賛同した教師が教鞭を執り、
建学の精神に賛同した生徒が学び、
建学の精神に賛同した保護者が学びを支える、
という形です。
しかし、これを維持している学校はほんの一部に過ぎません。
もちろん、私学の経営は、生徒の学費により成り立っています。
どんなに崇高な建学の精神を掲げても、
生徒が集まらなければ学校経営は立ち行きません。
教育と経営の両輪で、私学は運営されているのです。
しかし現実は、
進学実績という結果主義に洗脳された保護者、教員、生徒によって、
私学の存在意義である建学の精神が放置されたまま、
教育活動が行われている学校が多々あります。
進学実績を重視し、保護者の意見に迎合する私学経営者が多いのが実情なのです。
また、学習塾の介在により、
学校が偏差値によって評価されてしまうという現実があります。
学習塾と懇意にし、進学実績をアピールし、
教育内容を盛って繕って大袈裟に宣伝することに長けた学校が、
生徒を多く集める人気校となってしまっているのも否定できない事実です。
学校が閉鎖的な場になっていることも問題です。
私学といえども、一つの法人格をもった集団です。
当然、学校法人というある意味で会社を経営しなければならないのですが、
私学には経営のプロが存在しません。
企業の集客に相当する生徒募集を行うにあたっても、
株式会社であれば出資比率に応じて責任範囲が明確ですが、
学校法人の場合は声の大きい理事の意見が尊重され、
その意見に流されてしまいがちです。
学校の経営は責任の所在自体がとても曖昧なのです。
少子化を含め私学を取り巻く環境は厳しいものですが、
教育の本質を見失った学校が勢いよく進む時代が長く続くとは思えません。
今や、情報を制限することができない時代になっています。
これからは、本物しか生き残れない厳しい時代、
言い換えれば、本物だけが生き残る良い時代がやってくると確信しています。
理想的な私学とはどのような学校なのか、
理想的な私学を創り上げるにはどうすべきなのか、
本著では、これまでの経験から私なりに考えていることを、
お伝えしていきたいと思います。