注が煩わしいのが欠点
★★★★☆
これまで、シェイクスピアの作品は福田恒存の訳で読んできたが、先日観た蜷川幸雄氏演出にとても感銘を受けたので、そのテクストとなった本訳を手に入れた。
これはこれでなかなか良い訳だと思ったが、注釈があまりに多く煩わしい。
例えば、冒頭、ボヘミア王の臣下の語るセリフ「それを変えるような邪悪なものがこの世にあるとは思えません」に付けられた注が、“のちの劇の進行から振り返れば、皮肉な発言”だと。こんなもの、いちいち注をつけずとも読み進めれば誰でもわかることだ。
他にも、「ゼロも数字の最後につければその数が一桁増すのだから・・・」に“たとえば10にもうひとつ0をつけ加えれば100になり、数が一桁多くなるということ”だってさ。この本、対象年齢いくつですか?
松岡氏はよほど読者の読解力を見下しているようだ。こういう注釈に目を通していると、腹が立って仕方がない。
クレームつけましたが、適切な注釈も多々あります。オートリカスが宮廷人の振りをして羊飼を騙す場面では、羊飼はオートリカスが爪楊枝を使っているのを見て貴族だと信用する。というのも、当時、爪楊枝は大陸から伝わってきた最新のファッションだったのだそうな。
まあ、こんなのは枝葉末節で、訳自体は現代日本語の限界を感じさせるものの、健闘していると思いました。まあ、福田訳の全集が容易に入手可能であれば、価値は大いに減じるでしょうが・・・。
難解な箇所がシャープな日本語に
★★★★★
シェイクスピア最晩年の、最後から二番目の作品。「ロマンス劇」と言われ、全体が御伽噺のような空想性に満ちている。王の誤解により不倫を疑われ、死んだと思われていた王妃が、16年ぶりに石像に扮して現われる。そこに、やはり16年前に捨てられて羊飼いに育てられた王女も戻り、一家再会するという和解と再生の物語。前半部の多義的で曖昧な言葉溢れる舞台と、後半部の即物的な舞台との対照が面白い。第1幕第2場、王が王妃の不倫を疑い嫉妬に苦しむ箇所は、シェイクスピア作品中でも折り紙つきの難所。既訳と比べよう。「Affection! thy intention stabs the centre: Thou dost make possible things not so held, Communicat'st with dreams; how can this be?」「愛着の鋭い切先は物のどん底までも突通す。信ぜられなかった事をも事実にする。夢をも、どうしてだか分からんが、うつつにする」(逍遥訳) 「愛欲というものは! いったん狙いをつけたらあやまたず人の心臓を刺しつらぬく。不可能と思われることを可能にする。夢と言葉を交わしあい、信じられぬ話だが・・」(小田島訳) 「激しい愛欲は体の芯を刺し貫く。やれるはずのないことやらせ、夢と通じ合う、どうしてこんなことが?」(松岡訳) 小田島訳も名訳だが、やや冗長。松岡訳は短く、引き締まっている。