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病いの哲学 (ちくま新書)

価格: ¥756
カテゴリ: 新書
ブランド: 筑摩書房
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『病の哲学』について ★★★★☆
 著者の主な主張に関しては、トシ"知"さんの先行レビューがうまくまとめて下さっていると思う。 補足すれば、この著書において象徴的に「病」や「病人」と呼ばれているものは、同時に先天的な難病者や、高齢者をも含んでいると考えれば、著者の考えに対する、より包括的な理解が得られると思う。

 評者にとってこの著書は、直視されるべきは死の多様性ではなく、むしろ病・老いそして末期の生の、もしくはそれらに対する引き受け方の多様性ではないかと気づかされた点で重要だった。「死に淫する」ことによって、人はその眼を末期の生から逸らし続ける。「すべての人間は、死においてではなく、末期の生において代理不可能なのである」(P226)。著者はここまで書いてはいないが、本来私たちは病に苦しむ人の姿を見てさえも、人間の尊厳を感受することが出来る存在なのではないか。

 そして著者は「死の自己選択」の隠された構造と虚偽を私たちに示す。私たちは自ら選択したつもりでいながら、思想的に見栄えの良いもの、他者への犠牲として称揚されているものを選択しているに過ぎないのではないか。

 この著書で展開される論理への是非はともかく、著者の主張の根底にある、ある種の直感は信頼できる。それは、すべての生あるもの、すでに存在しているものへの肯定である。例えば第四章「病人の(ための)祈り」では、障害者の存在についての考察がなされている。受精から出産の過程は、極めて困難な過程であり、「この過酷な過程を凌いで生まれ出てきたすべてのものは、出来上がった完成したものとして、アリストテレスの用語では完全現実態として受け止めなければならない」(P167)。淘汰はすでに子宮・胎盤内で行なわれているのであり、生まれ出た障害者には何の欠陥もない。

 同じ第四章において、マルセルの「形而上学日記」を受け、人間の根源的な不随意性が問題とされる。人は自らの肉体の不随意性を嫌うが、人間には根源的に「不随意なものが内在する」(P173)。人間の動力の源は不可知であり、それを意のままに操作はできない。不随意こそが本来なのだ。そこを見誤ると、「尊厳死・安楽死は、自由の根源を捉え損ねる愚かな振る舞い」(P174)と化す。

 第六章「病人の科学」では、フーコーによれば死後の解剖により明らかになる肉体(臓器など)の変化において、それが疾患の原因であるのか、結果によるものかを判断することは困難であり、むしろ病の過程と死の過程の識別は可能だという。もし病の過程と死の過程が別のものであるとすれば、確かに病人の生は、それ自身で人間の在り方のひとつの様式として認められてよい。現代人はそこに死に傾くだけのものしか認めず、病の豊かさを見ようとしていない。

 第六章の最後に、いわゆる「スパゲッティ症候群」とよばれる状態に対し、著者は言う。「複雑な生理的システムを繊細に調整して病人を生き延びさせるには、管の数が少なすぎると憤るべき」(P224)である。むしろ現代医学は「病理的個性がそのままで安定性や頑健性を実現する道」(P226)のための希望であり、そのためにこそ機能すべきであろうと。

 ただし、ソクラテスの「魂-肉体」観への批判は、単に近代科学の視点から古代人の世界観を批判しているように思えることや、事故や災害で突然命を落とすことも視野に入れるのならば、ハイデガーの用語で言えば、やはり可能性としての死を先駆的に覚悟せざるを得ないのではないかという疑問は残った。また、例えば画家高島野十郎の兄であり、禅僧であった宇朗がしたように、宗教家が高齢時に病の末期を悟り、絶食の後に静かに死んでゆくなどというケースについては、少なくともこの著書の論理だけでは汲み尽くせないとも思えた。
うーむ ★★★☆☆
「『生きるか死ぬか、それが問題だ』。しかし、本当だろうか。」(7頁)

あ、そうなんですか?

たいへん僭越ながら、死のことをもそもそと考えて日を過ごしている身ですが、そんな風に問題を考えたことはなかったですね。ということは、少なくとも私はこの本では攻撃の的にはなっていないようです。ああよかった。

それにしても、こんなに眉間に皺を寄せて、不機嫌な雰囲気を醸し出し、喧嘩腰に先達と相対さねばならぬとすれば、哲学者というのも因果なものですね。

ところで、「死を通過して辿り着くべき生は、病人の生にほかならない」ということですが、これをわかりやすく阪急電車で例えれば、「誰もが梅田についてばかり語っているが、真に語るべきは十三ではないのか」ということだと思われます。

しかしですね。

阪急電車において十三が重要な駅であることは誰しも認めます。でもそうはいってもやはり、どの電車も川を渡って梅田に向かうわけです。したがって、「末期の生としての病い」について突き詰めて考えれば考えるほど、その先には改めて「死」が浮かび上がってくると思うのですよ。

的外れだったら謝りますが、「著者の言を是としつつ、その不機嫌にお付き合いする気にはなれなかった」というのが率直な感想です。
病人 ★☆☆☆☆
 病について西洋哲学者の知見を借りつつ考察した本です。
 西洋の哲学者がどういうことを言っていたかがわかります。
 あまり病そのものや医療についてはよくわかりません。
 病人という言葉を使っていますが手塚治虫の描くBJのように
 病人というネガティヴな言葉が「いかに人を傷つけるか」という
 ことにもっと自覚的であってほしいと思いました
 
先人の上を滑っているだけのような・・・ ★★☆☆☆
「病」というものを哲学的に考察した本かと期待して読んだが、はずれだった。

著名な哲学者を大量に引用してきては、それをうだうだ書いているだけの感じ。
ただただ、プラトンが何を言っていた、ハイデガーが・・・、を繰り返しているよう。

肝心の、筆者はどう考え、何を主張したいかがほとんど出てこない。
まあ哲学史を学ぶと思って読めば、ある程度は面白いのかもしれないが。
「生」を見る ★★★★★
結局重要なことは、私たちが今「生きている」ということだな、と気づかされました。
そこにアプローチするために、「病人の生」という概念を用いています。
とにかく読んで見るべきです。