日本人としての生き方の再考も必要かもしれない
★★★★☆
農村再生 小田切徳美 岩波ブックレット 2009
限界集落と言う言葉は行政用語だと哲学者の内山節さんは話していた。
養老孟司さんは都市化あるいは脳化という文脈で自然から遠ざかる事に危惧を綴っていた。
著者の小田切氏(1959−)は食糧・農業と地方というベクトルの交点に農山村が位置するはずだと指摘し、その農山村をテーマとする議論が農業や食糧(自給率等も含め)ほど行われていないことに危機感を持っている。小田切氏は限界集落と言う言葉は社会学者が独自の学術用語として作り、それをマスコミが好んで使って一般用語化したという。
本書では種々な統計資料に基づき、中山間地域の「人」「土地」「むら」の空洞化とそれに伴う諸問題を論じて行く。また政策としての中山間地域等直接支払制度、集落支援制度等も紹介するとともに、共同体としての「むら」の活動例や成功例も紹介している。
ただ、本当の意味での農村再生(漁村も含めて問題ないと思う)は個人や小規模な共同体で成し得るものではなく、国家としてのビジョンが重要だと指摘する。確かに財政経済的な文脈での施策は最重要ビジョンではあろうが、やはり、日本人の生き方(生きがい)、その思想とも言うべきイデオロギー(観念)を子供のころから共同体や教育の場で話し合う事が大切ではないかとも感じた書である。
良書です。
★★★★★
この本の著者、小田切徳美は限界集落に関する論文などでたびたび登場する。
筆者の主張は確かこうだった。
「高齢化率という一律の指標で集落を限界と決め付けるのは、懸命にそこで生きる人にとってあまりにも無礼ではないか。外に出ている家族や高齢者の活動によって集落の将来展望は大きく変わる」と。
つまり統計上の数値ではなく、現場に出ていって目でみて、はじめてその集落のことがわかるのだと主張している。
限界集落の生活や実態などを書いた本はよく見かけるが、ここまでわかりやすく限界集落について体系づけたものは記憶にない。よくこれだけの内容を薄いブックレットにまとめたなと思う。
農山村に対する熱い思い!
★★★★☆
これまでも、そしてこれからも日本の食を支えているのは農山村地域であるが、この地域では現代社会を凝縮したような様々な問題を抱えているのも事実である。本書では農山村の可能性を信じる筆者の熱い想いを感じる。また、地方にはそんな農山村を支えるべく頑張っている人たちがいる。今こそ都市と農山村の共生を考える時代なのだ。
「限界」は超えられる!
★★★★★
「限界集落」は好きになれない言葉だ。衰退した地域に降りかかる諸問題を強い表現で示すことで、課題を浮き彫りにした「効」がある。反面、あまりに身も蓋もなさ過ぎて、そう言われてしまったら立ち上がる気力も失せるだろう。その思いを、たったの63ページ、480円のブックレットで的確に書いてくれた研究者がいた。
第1章では、農山村の現状を「土地の空洞化」「むらの空洞化」そして「ほこりの空洞化」というキーワードを用いつつ、わかりやすいデータをもとに語る。そして第2章では、著者の豊富なフィールドワークから得られた農山村の再生事例に基づいて、説得力のあるコミュニティ再生のポイントが語られる。第3章は、いわゆる「限界集落」問題への対応策が提示される。著者は言う。「限界集落」は単純に高齢化率や世帯数だけで生まれるのではない、と。もっと自分の目と耳で現場に触れることが重要なのだ。「限界化」に取り組む鍵は「誇りの空洞化」を止めることにある、と著者は言う。「何をやってももうだめだ」と住民に諦観が生まれたときから限界化が進む。「諦めたら、そこで試合終了だよ」とどっかのオジサンも言っていた。地元学で有名な吉本哲朗氏は「頭の中にシャッターを閉ざすからシャッター商店街になる」と言った。その言葉を借りれば「頭の中に限界をこしらえたときから限界化が進む」のだろう。行政が、よそ者が、若者が、常に集落を見つめ手を携えて地域に入ることで限界化の防止につながる。
最後の「まとめ」に書かれた言葉もかみしめて読みたい。中山間地域のみならず、日本全国でコミュニティの衰退を促したのは小泉内閣の中で急激に進んだ「構造改革」であり「経済のグローバル化」である。恐ろしいと思ったのは「内発的発展」の概念すら地域に対する政治の無頓着を正当化するロジックとして使われた、との指摘だ。地域を越えて国レベルでの地域再生のグランドデザインが問われている。我々には、地域を変える力と同様に政治を変える力も重要だ。