教会と信仰
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信仰にめざめてから、
ずっと戸惑い続けていたことがありました。
なぜ、ひとつの神を信じるのに、こんなに宗派が分かれるのだろう。
なぜ、同じ神を信じる者同士がひとつになって祈りあえないのだろう。
なぜ、同じ神を信じる者同士が憎しみあわなければならないのだろう。
なぜ、宗派によっては神はこんなに裁きばかりを強調され恐ろしいのだろう。
なぜ、クリスチャンはクリスチャン以外と結婚してはいけないのだろう。
神はどの宗派の民を愛されるのだろう。
ある宗派に属さないからといって神が愛されない民があるだろうか。
教会はほんとうに信仰を培う場なのだろうか。
問い続けていたことに対するすべての答えがここにありました。
示唆に富んだ深く、かつ明快な言葉がここにあります。
このような素晴らしい本に出逢えたことに感謝します。
久々に香り高い物語を読みました
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アメリカのとある田舎町にいずこからともなくふらりとやってきて
そのまますみついた一人の謎めいた男、ヨシュア。
素朴で飾るところのないあたたかさ、
しかし洗練された風格ある物腰、
深い叡智を秘め確信に満ちた力強い言葉に
だれもが魅了された。
彼の生活が簡素なのは、彼の内面の簡素さの反映であり、
内面から来たものではない簡素さは、
周りの世界からの逃避でしかないと彼はいう。
自分たちが属しているものの否定であり、
それによって自分たち自身が傷ついているのだとも。
彼を脅威とみなした人もいた。
教会の権力者たちである。
彼が大衆をミスリードする危険人物なのではない。
教会の権力者が既得権を失うことを恐れるあまりに、
彼の方が危険なのだということにしておきたかったのだ。
さて、この本からわたし自身がくみ取ったメッセージだが...
たとえ信仰をもち宗教の世界に生きるものではなくとも、
置き換えて考えられることがやまほどある。
神を信ずるということは、真理に生きるとは、
決して何々教に入信したからだとか、
あるいは、ナントカヒーリングの何々先生にお免状を出してもらったからとか、
そういうことではないのだ。
権威とは外から来るものではなく内側から来るものである。
自尊は傲慢とは別物であり、
また謙虚さはへつらいとは無縁なものなのである。
さて、ヨシュアは最後まで自分が何者なのかを一切明かさなかったけれど、
ヨシュアは、実は“J”だったのではないか?
わたしはそう思っている。
そしてなによりも、
この物語を書いた、ジョーゼフ・F・ガーゾーン氏が、
カルメル会修道士であったこと、
監獄内の対立や公立学校の校内暴力等、
ニューヨーク州北部地域に頻発した危機的な社会問題の調停者として
活動し続けた人物と知って、
さらに深い感慨を覚えた。
久々に香り高い美しい話を読んだ。
今後の人生に影響を与えるのは確実
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自由な人とは、ここまで強く優しく素晴らしいのか。。
信仰について大きな勘違いをしてました。
聖書的人生の成功者の姿がわかります。
目指すべき人格(自己イメージ)がわかりました。。
最後までドキドキしながら読み進めることができました。
あまりの素晴らしい人間性に感涙したりもして。。
私の今後の人生に影響を与えるのは確実ではないかと思います。。。。
まるで、あの方が語り出したかのような錯覚に
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主人公ヨシュアの生き方こそが、真の宗教のすがたであり、真の人々を支える力となるものであるとつよく感じました。組織化され形式化された宗教のなかで、本来の精神が失われてしまう。作者ガーゾーン神父は、カトリック教会のなかにありながら、真のイエスの教えの精神をよりどころとされたために、曇りのない目で見つめることができたのでしょう。まるで、あの方が語り出したかのような錯覚にたびたび陥りました。また、不思議なことに、この感動を誰かに語りたくなります。原書も買ってしまいました。
これは、組織化され形式化された他の宗教にそのまま当てはまることです。豪華な伽藍のなかにブッダの精神が息づくのは難しい。宗教者の生き方の最高の指針となります。
一人の真摯な人間の生き方vs権威と伝統の組織
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素朴で真摯な生き方のヨシュアですが
生き方をとおして信仰のありかたを示しているようです。
その姿やごく個人的に語られる教えを脅威と感じる教会組織のお偉方たち。
とうとう呼び出しをくらいますが
さてどうなるでしょう。
キリストの生涯が下敷きになっているかな、
もしキリストが現代に現れたらどうなるか?
既存の宗教組織(教会)との関係は?
というテーマなのかなと思います。
キリストは生前にはたして、歴史上の所謂、
力を持つ教会が成立し、
そのためにどういう事件が起きるかを予想されたのでしょうか。
けっこう面白いので一気に読めると
思います。
読後にある種の感動が残ります。