葬列のあとを吹く風のような「大地の歌」
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マーラーはことさら死生観や厭世観を作品に反映してきたけれど、その究極点にあると言えるのがこの「大地の歌」ということになる。それにしても、交響曲の概念を様々に解釈したマーラーであるが、男声と女声が代わる代わる独唱するという一つの「形態」を生んだのもマーラーということになるわけで、この「ジャンル」はその後、ツェムリンスキーの「叙情交響曲」に代表され、ショスタコーヴィチの「死者の歌」までやや形を変えながらも受け継がれていくことになる。
マーラーが古代中国の漢詩にどれほどの関心があったのか分からないが、このような重要な作品で用いられていることを考えると、やはり「死生観」のようなものに共鳴するところがあったのではないか。その寂寞とした抽象的な無力感が、音楽という芸術的媒体でここまで通じるというのは、やはりこの交響曲が傑作だからだろう。
ショルティのマーラー録音の中でもこの曲はやや特徴的であり、いつもの明朗な鳴りより、やや一歩さがったところで音楽が形成された感がある。特に終楽章は即物的な音色であり、そこに幽かな情緒を残している。他方、第1楽章は従前のショルティらしさが出ていると思う。とはいえ、全体的にシンフォニックな構成感を優先し、あくまで「歌曲ではなくて交響曲である」というスタンスは保たれていると思う。そこはショルティらしいところだ。二人の独唱者、ミントンとコロは、ショルティの録音にはよく参加しており、感情を若干沈めた歌いぶりはこの演奏にふさわしい。「葬列のあとを吹く風」とはショパンの葬送ソナタの終楽章の形容句だが、この演奏が体現する「大地の歌」もそんな雰囲気を持っている。
弦楽器がゆっくりと鳴りをひそめていく中で、チェレスタの挿入句は風に舞う枯れ葉のようでわびしく物悲しい。
蒼い世界の中で、マンドリンの音が、かすかに震えるように
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・・・という楽曲解説を図書館で読んで興味を持ち、帰りがけにレコード屋でLPを買った今は遠い昔(ジャケットもまるで同じデザインで泣かせる)。曲全体の半分を占める長大な最終楽章のラスト、それまでにない緊張と感動に満ちて、永遠と思えるほどに長く引き延ばされたヴァイオリンのクレッシェンドが、永遠の春を讃えるアルトの最後の歌〜それは同時に、マーラーにとっての最後の人間の歌声〜を導きだす。チェレスタの音色が遠い星のようにきらめく中、マンドリンとハープが去りゆく詩人の琴のようにかすんで消えてゆく、その「永遠に…」のため息は実は彼の十番目の交響曲、第九番の冒頭の旋律。これは一つの終焉であると同時に、マーラーが踏み出した透明な「その後」の世界への扉でもあった。そんな事まで考えさせる演奏は、実は滅多にない。この録音は、希有な一期一会であったのかも知れない。それがこんな値段で売られているなんて、絶対嘘だ。どうにかしている。だけど嬉しい。