ところが、ありふれていればこそ物事の本質を知るのは困難なこと。本書を一読して真っ先に気づかされるのは、しばしば忘れられがちなその事実である。ある若いパリジェンヌが、何気ない1日の行動のなかで実に15種類もの階段と出あっていたというエピソードによって始まる本書は、「移動」「征服」「防御」「出会い」などさまざまな切り口によって、古代の巨大な石造階段、中世の城、ポンピドゥー・センター、安藤忠雄らの建築に見る階段の機能や神話性を次々と明らかにしていく。「階段の文化史」とも呼べるあまり類例のない試みに、住宅や建築に関心のある読者の多くは強く興味引かれるだろう。
ちなみに本書の著者はフランスの地方都市で設計実務に携わる建築家であり、その建築に対する関心も、主にル・コルビュジエをはじめとするヨーロッパ近代建築についての豊かな素養をベースに、その可能性を現代建築へと敷衍(ふえん)していこうとする方向性を持っている。著者が「啓蒙」と呼ぶ本書の執筆意図は、日本の読者にはあまりなじみがないにせよ、決して大それたものではなく実にオーソドックスなものなのだ。
訳文はよくこなれていて読みやすい。またフランス語原書の参考文献に写真資料を増補した書誌と本文中で言及のある建築家・建築事務所の名を記載したリストを巻末に掲載しているのも、原著の意図と日本語版の読者の便宜を考慮した心憎い配慮と言えよう。(暮沢剛巳)