日露戦争直前の満洲での諜報活動
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この巻では明治32〜36年の4年間の石光真清の満洲での諜報活動を描く。題名の「曠野の花」は現地で知り合った女性たちを表していると思われるが、当時多くの日本女性が娼婦として海外に働きに出た。東南アジアに渡航した女たちは「からゆきさん」と呼ばれ、山崎朋子さんが著した「サンダカン八番娼館」によって広く知られるようになったが、満洲にも多くの女性が売られていったことがこの本からもわかる。そのやり口の一端が、石光が朝鮮に逃亡しているときに見た人買船の遭難現場で紹介されていて、若い田舎娘を誘拐してウラジオストック、香港、シンガポールに送り込む輩がいたのである。
「菊地正三」という変名を名乗って、女郎や女郎上がりの女たち、馬賊仲間らに助けられての冒険談は全く飽きさせず、4年間があっという間に過ぎて日露戦争へと突入していく。
臥薪嘗胆の時代の満洲の実態が興味深い
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明治元年に熊本に生まれた石光真清の手記(全4巻)の2巻目である。日清戦争に凱旋した石光陸軍大尉は明治32年、菊池正三の変名でウラジオストックに上陸する。ロシアの進出著しい満洲各地を信義に厚い馬賊や現地に在住する日本娘たちに助けられて調査を敢行する。そしてハルピンに開いた写真館はロシア軍の御用達となり、有力な情報源となる。やがて日露間は風雲告げて帰国した石光は再び満洲の地に出征することになる。
この時代、すなわち日清戦争後の三国干渉から日露開戦まで(明治28-37年)は臥薪嘗胆の時代として知られる。しかし、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも満洲へのロシアの進出の脅威は記すものの通り一遍で当時の人々の実態は伝えてない。清朝の故地であるこの地はロシアの圧力のもと新天地として支邦人、朝鮮人そして日本人の進出も進んだ。東清鉄道の敷設に関わった日本人がいたことには驚く。
読んでいてこれは小説ではないかと思うような冒険譚や国を超えた仄々とした人々の善意あるいは交流が語られる。この時代、そしてその時代に生きた日本人の姿を知る貴重な記録である。
人智の及ばぬ痛快無比の歴史の裏面史があった!
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軍籍を離れた『曠野の花』の主人公石光真清は偽名「菊地正三」を名乗り、二十世紀初頭のキナ臭い思惑漂う最果ての露満国境で諜報活動に従事する。欧米列強に伍した軍事帝国を目指した日本の仮想敵国は、当時の陸軍最強国と謳われたロシアであった。
帝政ロシアの満州侵略に抵抗した中国(清)の馬賊に同情し、「清国に欠けているのは、義軍の間に統率がなく戦略がないことだ。勇気のあることと、いかなる困苦にも堪えるという点では、間抜けのロシア軍など足もとにも及ばないじゃないか。」と接触を試み、馬賊組織に顧問として潜入する。
民衆着ルバシカを着たこの人物は、或る時は哈爾浜(ハルビン)の素人洗濯屋、また或る時は最新機材を完備した写真館経営者と神出鬼没だ。拉林(ラーリン)で絶体絶命の窮地を救われた後しばらくは逃亡者に身をやつす。読者は手記の逸話から、人智の及ばぬ痛快無比の歴史の裏面史があったことを知らされる。
貧しい明治期の日本に別れを告げた国際化と無縁の日本人放浪者たちの無頼ぶりには驚かされる。とりわけ大陸に咲く花のように逞しい日本人女性が示す芯の強さ、勇敢さ、気っ風の良さには<畏敬の念>を覚えざるを得ない。
ロシア人の信頼を勝ち取った友情と仁義を尊ぶ日本人の責任感と勤勉さの<美徳>に加えて、様々な外国人が混在する満州の地で幾度もの危機を脱出した主人公には、機略、温情、大胆不敵という特性も看て取れる。
ロシア奥地に取り残された日本人居留民が舐める虜囚生活という『日本捕虜志』に描かれた不運と苦難に比べ、地の利、時の運を得て紙一重で無事帰国が叶った主人公の強運には、運命を分かつ力の不可思議さを厭というほど痛感させられた。
「事実は小説よりも奇なり」が最もよく当てはまる手記
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本巻からいよいよ筆者の満州における「特別任務」の記述が始まる。「事実は小説よりも奇なり」という言葉が最もよく当てはまるのは本書ではないかと思われるほど、筆者の満州での体験は劇的なものであり、どのようなエンターテイメントよりも楽しめる。まるで物語のような筆者の放浪記もさることながら、筆者の筆によって描かれる日露戦争前夜の満州も実に興味深い。ロシア人、中国人、満州人、朝鮮人、ドイツ人、日本人らが様々な活動を繰り広げたかの地はまさしく当時の国際政治の前哨線であった。当時から既にかなり多くの日本人が大陸に渡っていたことを知った。近代日本史を知るのに貴重な視座を提供してくれる一冊だ。
武侠小説のように面白い明治人の稀有な記録
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石光真清の手記4部作のなかでも、最も波乱に富んだ日露戦争直前の時期を描いた本書は、まさに「事実は小説より奇なり」と思わずにはいられない冒険活劇だ。ロシア語を勉強しようと私費留学生として大陸に渡った著者は、義和団事件をきっかけに戦乱に覆われるシベリア・満州を舞台にして、娘子軍としてシベリアに渡った日本人女性や信義に厚い満州馬賊の頭目などの協力を得て、ロシア側の軍事情報をさぐろうと諜報活動を行うことになる。
著者が馬賊を始めとする大陸の無名の民を共感を込めて描いていることや、「曠野の花」に例えられた女郎衆が「私も日本の女です。恩を仇でかえすようなことは致しません。」と言って著者を助ける場面には感動させられた。武侠小説に描かれるような義侠心あふれる人間関係が好きな人にお勧めの本だ。また本書は登場する様々な明治の日本人を通じて、欧米列強、特にロシアの脅威をきっかけに大きく高揚した、明治期のナショナリズムの諸相を今の日本人に伝えている意味でも稀有な本だと思う。