ヤンキー的なるヤンキー文化論
★★★★☆
ヤンキーを題材にして、成立過程から拡散(あるいは衰退)過程を
描きつつ、その根底にあるものを問うような内容になっている。本書
の構成は4つにわけられており、「ヤンキー文化とは何か」、「ヤン
キー系表現」、「地域社会のなかのヤンキー」、「ヤンキー文化論の
射程」で、それぞれオムニバス形式で執筆者が思い思いに論じている。
冒頭でも編者の五十嵐太郎は述べているが、ヤンキーの定義をあえて
統一せずに執筆者にまかせているようである。対比させるとするなら
ば、宮台や安部、大山といった社会学出身の論者(森田もどちらかと
いうとこっちよりかもしれない)と批評家やメディア論系の論者にお
けるヤンキーのとらえ方の違いであろう。前者はヤンキーを(地方の)
地域社会の下位集団(不良グループ)に属する若者としてとらえてい
る。そのため90年代以降、地域社会がさらに解体していくなかで、消
滅していったと考えている。対して、その他の論者は、ヤンキーをス
タイルとしてとらえている。ヤンキーのセンスは、複数の表象をそれ
ぞれ過剰に誇張した上でキメラ的に結合したものであるという(この
点は、共通認識のようだ)。そして、そういったヤンキー的センスが
各分野(建築、音楽、絵画など)においても見出されることを指摘し、
その普遍性について述べている。
この対比はそれぞれの論者のスタンスからくるものであろうが、ヤン
キーに対するまなざしの違いであるので、非常に興味深い。ステレオ
タイプのヤンキー像は、80年代のリーゼントに改造学ランを着て、暴
走族に参加するタイプであろう。このような者に対して、社会学系の
論者は、社会集団のなかで生きるひとりの生活者に対するまなざしを
むける。他方で、批評家系やメディア論系の論者たちは、ローカルに
ブリコラージュする表現者に対してのまなざしから論じている。そし
て、前者はヤンキーの消滅に郷愁感を、後者はヤンキー的センスの拡
大あるいは拡散に感興を含んでいるような印象を受けた。
ヤンキー文化論は「〜文化論」としても一般には色物に位置するであ
ろうし、ヤンキーへの2つのまなざしと、2つの感情からキメラ的にこ
の本は構成されている。本書はそうしたヤンキー的なる書籍である。
新提言!
★★★★☆
ヤンキーの伝道師にボーイ、スピードも含まれていた!(髪の色は関係ない)
日本人の5割以上はヤンキーの時代。よく読むべし。
オタク文化論が煮詰まったら、今度はヤンキー文化論で盛り上がろうぜって?
★☆☆☆☆
この本の評価がどうしてそんなに高いのか、理解に苦しむ。
まえがきで編者の五十嵐が、「本書は最初の試みであることを優先し、あえて細かい定義を行わず、ヤンキー的と思われるさまざまなトピックを扱う」(p5)と言っているが、確かに通読してみて、この本には「ヤンキー文化が注目株!」って売り文句だけがしつこく繰り返されていて、それ以外は何も書かれていない。帯にも「オタク論には、もう飽きた! いまこそ、ヤンキー文化の豊潤な可能性を見よ!」とあって、要するに出版業界だか思想業界だか知らないが、新しい「産業」を立ち上げようという話でしょう。
同じくまえがきに、「今回の執筆者は必ずしもヤンキー体質ではない。インタビューでは、都築響一からもその点を指摘された。彼らを分析するまなざしに、オリエンタリズム的なフィルターが介入しているかもしれない。批判は甘んじて受ける。それでも、やらないよりは、やるべきだと思うからだ」(p7)ともあるが、曲がりなりにも大学人の言うことか? 踏みとどまる勇気ってこともあるでしょうよ。
都築のインタビューは一応読ませるが、しかし何を根拠にヤンキーを「サイレント・マジョリティ」(p65)と言えるのか? まさかナンシー関が「人口の約5割」(p271)と口走ったからじゃないでしょうね? ナンシーさんがそう書くのは許せるけど(厳密には、そう書いていない)、卑しくも研究者や評論家を名乗る連中が、検証もなくそれに乗るか?(例えばp250)
辛うじて節度を感じさせたのは、近田春夫・阿部真大・速水健朗・後藤和智あたりかな。ハァ……
ヤンキー、非東京的存在
★★★★★
日本文化=オタクカルチャという言質は、
ここ10年の支配的な評論です。
実は世の中を見回すと実はそんなことはない訳です。
それは「ヤンキー」の存在。
土着した根強い風俗はヤンキー文化と言えるのです。
まずその着想が、ああ、そうかと視野を広げてくれます。
非オタクで、
独自の美的価値観を保持する「下位文化集団」。
こういう多元的な視野でのサブカルチャー論は、
大変珍しいし、説得力があります。
社会学として面白いのは第V章。
ヤンキーと地域の関係を解説しています。
これが面白いです。
大山昌彦の「暴走族文化の継承」が白眉。
祭りと暴走族の関係性を明らかにしています。
ヤンキーは、やっぱり「地元志向」なんですね。
ヤンキーカルチャーとは非東京であるという都築響一の指摘は、
物事の本質をついた慧眼です。
本書をきっかけにヤンキーカルチャーの面白い書籍が続くといいなあと。。。
ヤンキーを知りたければ、この一冊
★★★★★
編者のヤンキーについて、あまりよく知らないので詳しい人たちに語ってもらおうという
意図がとても良い方向に働いたと思う。
それで、都築響一氏、近田春夫氏などの日本の不良文化にずっと接していた人たちの
貴重な話が収録されているので、資料価値も大変高い。
リアルヤンキーを知らないどこぞの大学教授が書いた文化論と違い、フィクション作品の中の
ヤンキーにはないリアルヤンキーならではのツボが、都築氏の語る細か〜いところで端的に
言い表されていることに感心した。
後藤和智氏の”「ヤンキー先生」とは「何だった」”のかも、義家議員の主張の変遷こそが
ヤンキーの本質(過剰・短絡・他力本願)であることを示しているし、
阿部真大氏の”ヤンキーたちは地域に戻ることができるのか”もヤンキーの就労・経済の
現状に切り込んだ秀逸な文章。
惜しいのは、冒頭の宮台真司氏の言葉をこねくり回しただけのおもいっきり的外れな
インタビュー。あれさえなければ…。
それでもヤンキーの研究者にとっては必読と言える一冊である。