これはどうしてだろうと私は思いました。ひょっとすると、それは、第二次世界大戦を経験した、特に東京大空襲にわが身を持って接した、そしてそこでは、”死すなわち死体”を目の当たりにした・・・そうであろう著者にとってはごく自然な一連の思考なのかもしれないと考えました。「見えない橋」の作品の多くに対しては、”自然な”という私の表現は、”冷静な”あるいは”淡々とした”と置き換えてよいかもしれません。
余談ながら、なんとなく、昔ほんの少しだけ手にした内海隆一郎さんの作品を読んでいるような錯覚を覚えました。短編で、登場人物の日常の身の回りを巡る内容であるからかもしれません。
もしも似ているとして、これら両氏の短編作品はどういう類の小説であるかと私が問われ、私はなんと答えられるだろうか。そんなことも考えました。