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芸術と脳科学の対話―バルテュスとゼキによる本質的なものの探求

価格: ¥1,995
カテゴリ: 単行本
ブランド: 青土社
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異種格闘技としては、芸術家の勝ちであったか? ★★★★☆
バルテュスもセミール・ゼキも知らないので、レビューが成立するか心配であるが。
脳科学と芸術の別次元の範疇で、それぞれが語られるとき、果たしてインターフェースがあるのか。
はたまた、鶏と卵論争になるのか。
脳神経活動の所産としての芸術なのか、芸術活動を通して、脳が覚醒されるのか。
そんな取っ掛かりを経て、ゼキいわく、「脳には、周辺の膨大な情報から、本質的な情報を選択する能力を本来備えている。」バルテュスいわく、「前世紀の画家たちの視覚には、私たちが失ってしまった鋭さが、根底に残っている。」双方の主張に通底するのは、今日の膨大な情報に埋没する脳が、もはや何も見ていないということ。脳は、本質を見抜く力を放棄してしまったのでは?
脳と芸術は、「本質的なものを捉えようとする」点で、一致する。
ところが、抽象芸術を嫌うパルテュスは、抽象芸術は、芸術の終焉だと決め付ける。
ピート・モンドリアンの絵画は、究極的には、小さな四角形の組み合わせが、物の本質である事。
本質的である事と、単純化とは、似て非なるごと。
ゼキの指摘。モンドリアンの垂直線と水平線は、大脳生理学的には、正しい。脳内には、円に反応する細胞は、ひとつもない。
東洋哲学的、或いは、禅宗的「円」とは、逆説的に墨絵芸術の究極ではないか。
ところで、キネティック・アートに関する所感。
「動き」そのものに、芸術的価値を共有するが、「動き」の抽象化や、再現化、あるいは画像化は、捕らえ所のない鵺のごとく、困難であり、また陳腐であるとも言えよう。
今後、脳局在の血流量で、美学を解説できたとしても、モーツアルトの音楽やドラクロアの絵画を超えた創造主を、科学では生み出せないことは、確かである。