アメリカの歴史を書くに当たってジョンソンは「一部の歴史学者のように自分の意見を隠さない」「現在の学会で流行っている術語に屈服しない」「ポリティカル・コレクトネス(政治的公正)を遵守するというみっともないことはしない」ことを戒めとして自らに課した。ポリティカル・コレクトネスとは、「大平洋戦争」のことを「大東亜戦争」と言わない正しい姿勢、あるいはイギリスの歴史家がワシントンを「反逆者」とそしり、アメリカの歴史家が小学生にジェームス3世を「恐ろしい鬼」と教える歴史認識のことだろう。戦前の日本の文部省選定唱歌が「ここに立ちたるワシントン」とアメリカの自由と独立を称え、修身の教科書が「ワシントンと桜の木」のような作り話を載せていた(中央公論社『世界の歴史11』)のも、一種のポリティカル・コレクトネスである。
『「明治」という国家』の創設者たちには、自分たちをワシントン、ジェファソン、フランクリンらになぞらえる気概があったということかもしれない。しかし残念ながら、ポール・ジョンソンはアメリカの建国を日本の戦前の教科書みたいには美化しないのである。「自由のために立った」ワシントンの内的動機、独立宣言に奴隷制度撤廃を盛り込めなかったジェファソンの矛盾、フランクリンの心に潜む人種差別意識など、建国の父たちの内面からアメリカの国家理念と社会的欲望の相克を描いている。倫理観のくもりを吹き払った透明な歴史書である。(伊藤延司)
ジョンソンはアメリカ人の独創性を敬愛の念で描き出し、読者はそこにある種の興奮を感じることができる。これは、とかく批判的な観点で考察されがちなアメリカの歴史において、ジョンソンがこの歴史の素晴らしさをわれわれに再確認させてくれるからに他ならない。本書を読み終えた読者は、大国アメリカの根底にあるその人々のパワーを感じざるえないであろう。翻訳者の別宮貞徳の日本語訳も読みやすく、さすがというところだ。
アメリカという国を理解するのに一役買うのではないかと思います。
実際に、アメリカの大学でほぼこの本の内容のような教科書をアメリカ史のイントロダクションのクラスで使用しています。
アメリカ人が自国の歴史について学ぶ視点でアメリカという国を見ることのできるとてもいい本だとおもいます。
「本書には、アメリカの過去のあらゆる面、あらゆる時代について、しばしば辛辣な新しい見解が示してあり、また私は一部の歴史学者のように自分の意見を隠すつもりがない。すべて白日の下、採るも捨てるも読者次第である。」
本書は、(1)アメリカ建国時における不正は償われたか、(2)利己主義よりも正義が優先される国家が創出されたか、(3)世界の模範たる国家となりえたか、という3つの疑問を提起する。体のよい内容だけが書かれている歴史教科書と違って、筆者の感情がはっきり示されているという点で、読む価値が高いと思う。
また、彼は我々に次のように挑戦する。「本書には、アメリカの過去のあらゆる面、あらゆる時代について、しばしば辛辣な新しい見解が示してあり、また私は一部の歴史学者のように自分の意見を隠すつもりがない。すべて白日の下、採るも捨てるも読者次第である。」 これは、本書における彼のテーマに連なっている。彼はこのように述べる。「アメリカ合衆国の創出は人類最大の冒険である。自国民そのものに対して、また人類全体に対して、これほど大きな教訓を持つ国史はほかにない。…この教訓から学び、それを礎として未来を築くことができれば、今まさに始まろうとしている新時代に人間社会全体が恩恵にあずかれようというものである。」そして、アメリカ建国時における不正は償われたか、利己主義よりも正義が優先される国家が創出されたか、「丘の上の町」に擬せれる世界の模範たる国家となりえたか、という三つの疑問を提起する。つまり、彼の意見の表明は(本書に登場する各人物の好悪の感情も含めて)、彼自身の疑問に対する思索を示すものなのだ。ここに、よくある歴史教科書では味わえない本書の魅力が隠されていると言えるだろう。