演劇における伝統と創造
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現代演劇・モダンバレエ・舞踏などパフォーマンス芸術を鑑賞するうえで、大いに参考となる本である。あちこちで書かれたエッセイを集めたものであっても、日本伝統芸能に関する博識を礎に、たしかな観察眼とゆたかな想像力をもって、重要な舞台・戯曲を解明する姿勢の一貫性がある。
「女のハラキリ」と題されたエッセイで、渡辺保氏が趣味で好んで読むという『元禄世間咄風聞集』に記載された、江戸旗本の奥勤めの55歳の老女が、65歳の老女を斬り殺した後切腹自害したエピソードを紹介し、「七百石の旗本の家に一生を閉じ込めた女たちの鬱積が目にみえるようである」と述べている。見えないところに見えるものを探し、虚構のなかに真実を求めようとする姿勢あるいは視座こそ、一貫するところなのである。そして舞台における虚なるものの設定の方法、および観客の視線の誘導のしかたについてつねに批評眼がはたらく。たとえば、カナダの演出家の「コリオレーナス」に触れて、ブレヒトの「同化」と対比している。
「ブレヒトはたしかに同化を拒否した。しかしそれは低次元の同化であって、実は異化が対になった相対的な概念であって、コインの裏表にすぎないことをよく知っていたからである。片方だけでは成立しにくい。一方があるからこそ、もう一方も成り立つ。そのことはブレヒトの戯曲を読めば明確である。」
ところがこの演出家が「同化を見事に切り捨てて」、「観客に知的な刺激だけを与えることに成功して」、「新しいタイプの演劇の可能性を示している」と評価している。
世評やカリスマ性などに拝跪することもない。ベジャールの「M」は、構造が複雑すぎて舞踊にむいていないこと、和楽器を使った音楽にふさわしい身体表現が観られないことことから、日本文化論としては興味深くとも、踊りとしては面白くないとしている。イプセン作「ヘッダー・ガブラー」の、デビッド・ルボー演出のオープン・スペース舞台については、そもそもイプセンのセリフは、シェイクスピアのとは違って、対話の相手のみにむけられたもので、放射状に発信するものではない。イプセンとは異なるリアリティを与えようとした試みだとしても、かえってウソが露呈し失敗であると断じている。痛快である。しかし蜷川幸雄氏については、三島由紀夫作「卒塔婆小町」の演出を、予想を裏切られたみごとな舞台として絶賛している。
大野一雄の「ラ・アルヘンチーナ頌」、三島由紀夫「サド侯爵夫人」および久保田万太郎の戯曲を論じた文章が、出色である。「ラ・アルヘンチーナ頌」の鑑賞では、「八十七歳にしてその余りの瑞々しさ、驚くべき迫力に思わず涙が出た。その純粋さ、完璧さが稀有のものだったからである」。かつて有楽町朝日ホールで観たこの舞台をあらためて思い起した。いっけん日常のことばに思われる久保田万太郎の劇的言語のセリフが舞台で喋れる役者がいなくなったとの指摘は、勉強になった。やはりこの書の圧巻は、三島戯曲の代表作「サド侯爵夫人」に関しての考察であろう。
謎解き、語り、女ものはそれぞれ補完しあいながら、変身譚を成立させている。三島由紀夫にとってドラマとはこの変身譚以外にはなかった。そこに劇作家三島由紀夫の秘密がある。一見、フランス古典劇風に見えても、せりふによる情熱の対立はなかった。それが日本での高い評価と同時に、外国でのグローバルな成功につながったのである。この作品が西欧の伝統と日本の伝統の幸福な受肉であったからにほかならない。三島由紀夫にとってドラマとは、ルネの顔にかすかにひろがる、あの光彩であった。この演劇がたとえられているという「鏡山(加賀見山)」の舞台は未見。三島『サド侯爵夫人』ファンとしては、ぜひとも観たくなった.