いろいろ疑問点もありますが、面白いことは面白い
★★★★☆
呉の本は以前はすべて入手して読んだが、最近それほど熱心に追わなくなっていた。ま、読めば面白いのですが、何だかあちこちに書いた短い文章を寄せた本ばかり出しているみたいで、少し醒めたと言うか……で、本書について思いつきをいくつか。
1:1989年から1991年にかけてのソ連・東欧圏の政治変動を「革命」と呼ぶことについて、著者は「1917年のを先行反革命とするか、1991年のを反革命とするか、この二つ以外に整合性のある思考はありえない」と言う(p24、p170)。しかしこれ、『論語』講読の私塾を永く続けた人としてどうなのか? 易姓革命って「姓を易え、命を革める」ってことでしょ? 天命が革まったら「革命」でいいんじゃないですか? 英語のrevolutionだって、本来的には「転回」ってことなんでしょうから、1917年に革命が起こって1991年にまた革命が起こったって、私はいいと思うんですけど……
2:第2章2節1「『ソイヤ』が栄える理由」で、東京周辺の神社祭礼の神輿の掛け声が軒並み「ソイヤ」に変わってきたのはテレビで三社祭を見た影響だろうから、不健全だと仰る。しかしそんなこと言ったら、現在各地に残る「古くからの民謡」なんかだって、地域の民謡大会やらレコードやらの影響で歌詞も節回しも画一化したんで、別にテレビのせいで始まったことじゃないですよ。ま、そもそも民俗芸能みたいなものをありがたがる感性を批判するっていうなら、一理ありますけどね。
3:第1章3節「常識的在日論のすすめ」の最後で著者は、民族姓を朝鮮音で読ませる風潮に苦言を呈している(p46)。ま、p243の補注にあるような例はあんまりで、日本語の音韻体系を大幅に踏み外すようなことは必要ないけれど(ヴァイオリンなんて、かなり定着しましたが……)、基本線としては人名は原音を尊重した方がいいと私は思う。たまたま漢字を共有するところから余計な問題が生じているだけで。それに最近は日本人の名前も読めないものが増えてて、朝鮮音のことを言えない状況もあるんじゃないですか?
4:第1章最終節の昭和30年代の「魅力」を語った文章。「一つまみの不幸が残っているという塩っぱさ」こそが、その核心だと仰るのだが、イヤ〜、そりゃ呉センセ及びその周辺の不幸は「一つまみ」だったかも知れないですけどネェ〜。
スパっとした言い切りが気持ちいい
★★★★☆
昔はよかった的な話が多いので、年長者に説教食らっているような感じもするが、主張が分かりやすいし知的に得られるものは多い。
氏のいいところは、読者に自分で考える隙を与えていることだと思う。それは、メディアに毒されたステレオタイプを自分に問う、点検の場となる。
元々そうではなかった差別語を、無いものとして中途半端に言い換えることで、タブーの意識がいっそう際立っていくという、あの嫌な感覚。
子猫殺しは、人間による支配の真実を現していて考えさせられる。昆虫や、観賞魚の間引きをして同じように非難されるだろうか。
反論に値する人(コト)と、そもそも相手にしたくない人を区別しているような印象があった。上から目線で、後者を挑発的に茶化すのがあまり好きではないが、分かりやすくてキレのある物の言い方は気持ちいい。
★4は、記事の寄せ集めで単行本になっていることと、そのお値段。新書や文庫でコンパクトに読みたい。
呉センセイの
★★★★☆
呉さんの評論を見ると、どの本でも殆ど同じ姿勢を
貫いている。その基本姿勢とは、「無駄や回り道を避け、本分をまっとうせよ」
というところにつきる。封建がどうのこうのとすねていたことも
結局はこの考え方からでてきている。
早大法学部という、法曹や省庁の要人などを養成するエリート機関から
雑文書きに成り下がった呉さんの、最大の敵とは、ズバリ、堕落である。
暇や、ウダウダすることが、まるで自分をエリートから遠ざけたことの
ように感じ又世間からそう思われることを恐怖する呉さんは、暇やウダウダを嫌い、
まるでご自分が大学に10年通ったような「迷った状態」を目の敵にした
評論ばかりするのだ。
呉さんの最大の論争は、コミック誌における、読者との「ゴルゴ13」
登場の必然性をめぐった是非論だったろう。呉さんは、ある回のゴルゴ13で
主人公が本分をまっとうするような活躍をしなかった、ということに腹を立て
ゴルゴ不用を唱え、読者と論戦になったのだ。どんな筋書きだろうと、どんな
設定矛盾があろうと、ゴルゴはゴルゴではじめにゴルゴの存在ありき、なのだが
呉さんは存分に役にたたない存在は認めない、と一点張りを通し、ありのままの
キャラの存在を受け入れず、読者や作者を無能よばわりした。
「無駄や回り道を避け、本分をまっとうせよ」
他人に、論理的整合性や、有効存在性を強要する呉さんは、
人間の精神なんてそのいい加減さで健全さが保たれているんだという
理会には至らないようだなあ・・・・
評論家呉智英の最近の評論・エッセー
★★★★☆
第一章「健全なる精神は健全なる言論に宿る」は、どれも比較的長めの文章。平成13年以降さまざまな雑誌に発表されたもの。第二章「健全なる精神を保つために」は、朝日新聞や雑誌連載した短めのエッセーを集めたもの。第三章「健全なる精神のフットワーク」は、産経新聞「断」に連載しているものから四十二本を選んでいる。
どの文章も比較的最近発表されたものである。短めのエッセー・評論であるので読むのにそれほど困難はないと思われる。ただし内容は、いつもの呉智英氏の通り。日常生活で我々が見過ごして普段考えたこともないような意外で斬新な話が多い。政治、法律、思想、民俗、宗教などにまつわることだが、くだけた話も載っている。
呉智英の読者なら迷わず「買い」でしょう。氏の評論は最近はネットの掲示板でも話題になることが多いようだ。
言論のバランサー
★★★★★
久しぶりに手に取った呉智英の新刊。サルの正義→危険な思想家につらなる啓蒙思想批判をメインにしたコラム集。
氏はサブカル保守の中心に位置するような人で、ネット右翼のご先祖だと思われがちだ。
実際、氏のコラムが2chで話題になることは一度や二度ではないし、親和性は高そうだ。
だが氏は別に天皇制や男系維持を主張しているわけでもない、
(派と括れるなら)嫌韓派とは論調がだいぶ異なるし、
自国を支那と呼ばせない中共やそれに追随する日本外務省の体質は激しく批判するものの、
氏の思想の中心は儒家思想にあるので、支那憎しで凝り固まっているというわけでも、敵の敵の台湾を妙に持ち上げたりもしない。
呉智英は政治的な言説に警戒が強く、古くは小林よしのりの脱正義論で小林の政治に対する脇の甘さを批判していたことにも現れる。
胡散臭い政治的な言説を識別し、その胡散臭さを左右両派に関わらず批判する、
言論のバランサーとしての呉のキャラクターがよく現れている。