しかし、奥泉光の他の作品を読んだ者としては、「またか」という感想を抱かざるを得ない。『葦と百合』『吾輩は猫である殺人事件』両作にも見られた、意図的な「ずらし」の構造。正直なところ、「ああ、またこうして話をずらして終わるのか・・・」と思ってしまった。しかし、こうした傾向が顕著であるのは、この作家がこうした「ずらし」について拘りを持っていることの現れであろうし、いずれの作品もその拘りへの試みと考えることができよう。
グノーシス思想(反現実主義、反宇宙主義、霊肉二元論)がふたたび蔓延する時代を先取りし、身体性を抽象した「純粋な関係」への希求と身体的な営みからはじまる関係を肯定する「幸福な思想」への憧憬との分裂を「刻印された肉体」をもって、文字通り身をもって生きた「帰国子女」の叫び──「アナタタチハ、ネッカラノ、ニッポンジン、ナンダナ!」「アナタタチハ、死ンデイルノト同ジダ」。
初期マルクスの疎外論にノヴァーリスの魔術的観念論を接ぎ木した思考を紡ぎ、背中に痣(聖痕)をもった魚(つまりイエス)が最期に残した言葉。
《あなたたちは祈ることをしない。だからぼくはあなたたちを信用しない。祈るっていうのは想像することでしょう? いまとは違う現実に向かって、こことは違う場所に向かって、リアルに、いろいろに、想像を巡らせることでしょう?》
《人間は本当に理解しあうなんてことは絶対にできない。でも、人間には理解しあう以上のことができるんじゃないでしょうか? あなたたちが僕を理解しないで、僕があなたたちを理解しなかったのはたしかだと思います。しかし、本当は、僕らは理解しあうことなんかじゃなくて、もっと別のことをすべきなんじゃないでしょうか?》